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<回顧3.11焦点>在宅被災者置き去り 寝たきりの家族、食料も尽き…

公的支援が届かない自宅で、後藤さんは釜での炊飯に苦労した=宮城県南三陸町戸倉
被災後、支援が届かない自宅で過ごしてきた菊地さん=石巻市水明南1丁目

 東日本大震災の発生から11日で3カ月。地震や津波の被害を受けながらも、自宅を離れられなかった「在宅被災者」に、公的な支援は少なかった。被災者たちは、食料や水の調達など多くの苦難を乗り越えてきた。

<宮城・南三陸町/自宅で苦闘>
 米粒は白く光り、抜群のおいしさだった。
 「涙が出そうだったよ」。宮城県南三陸町戸倉の後藤さえ子さん(59)は、訪ねてきた秋田県のボランティアからもらった、おにぎりの味が忘れられない。
 海まで約200メートルの高台にあった自宅は玄関先まで津波が押し寄せたが、奇跡的に難を逃れた。地区のほかの家は大半が壊滅。住民らが避難所に身を寄せる中、後藤さんは夫(63)とともに自宅にとどまった。
 「96歳の寝たきりの義母を、避難所には連れて行けなかった」
 近くの川に水をくみに行き、まきをくべて釜で米を炊いた。慣れない作業で、べちゃべちゃしたご飯にしかならなかった。冷蔵庫にあった魚や肉も1週間ほどで尽きた。
 同じころ、避難所に物資が届き始めたが、量は少なく、住民らは互いに持ち寄った米や漬物でしのいだ。秋田のボランティアが訪ねてきたのは、このころだ。「当時は生きた心地がしなかった」と振り返る。
 2週目に入ると物資の量が増えてきた。町の指定避難所に届いた物資は地区の自主避難所にも分配され、後藤さんも受け取ることができた。
 電気は震災から2カ月近くたった5月上旬、簡易水道も6月に入ってやっと復旧。ようやく生活が落ち着いてきた。
 避難所で物資が余り気味だという話を最近、よく聞く。「本当に欲しい時には、なかったけれどね」。後藤さんはつぶやいた。

<石巻/水上生活で情報過疎に>
 石巻市水明南1丁目の鮮魚店経営菊地秋男さん(60)は妻みはるさん(58)と相談し、自宅にとどまることを決断した。人工透析を受ける母親(90)が、避難所の暮らしに耐えられるかどうか不安だった。
 地区一帯は、旧北上川をさかのぼった津波が堤防などから漏れ出して浸水。菊地さんの店は保冷庫や商品棚などが流されたが、店と棟続きの自宅は床下浸水にとどまった。水が引くまで4日間、「水上生活」を送った。
 避難所には行かなかったので、避難所でどんな支援が得られたのかは、想像もできない。
 母親の通院や食料、水の調達には幸い、浸水を免れた車を使うことができた。煮炊きにはストーブを使ったが、ガソリンや灯油が入手しにくい状態が続き、「毎日、ハラハラし通しだった」という。
 電気が約1カ月間も途絶える中で、困ったのは情報の入手。ラジオが頼りで、身近な施設の復旧見通しなどの確かな情報がなく、不安と心細さがこたえた。
 店のシャッターはこの3カ月、一度も開けていない。生活再建には、やはり本業の再開が不可欠だ。店舗の改装が済めば、店頭販売も始められるが、業者は復旧工事の依頼が殺到し、いつ改装できるのか、まだ見通しが立たない。
 「年内に営業再開できれば…。石巻は水産の街、魚の街だから、頑張らないと」と菊地さん。まだ浸水の跡が残る店舗で片付けに追われている。=2011年6月10日河北新報
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 東日本大震災の直後から、被災地で暮らす市民の課題を取り上げた河北新報連載「焦点」。震災7年の節目に、発生翌年までの主な記事をまとめました。
=肩書や年齢は掲載当時のものです。=


2018年03月01日木曜日


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