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<止まった刻 検証・大川小事故>第5部 漆黒(1)非情の激流 児童の列襲う

津波襲来から約2時間後の大川小。2階建ての校舎は水没し、体育館は流失した=2011年3月11日午後5時35分ごろ(石巻市提供)

 土煙が上がり、山鳴りのような音が響いた。
 石巻市大川小の教職員と児童が校庭から徒歩で移動を始めて約1〜2分。3月11日午後3時30分を過ぎていた。
 当時5年の只野哲也さん(18)=高校3年=は、民家に挟まれた細い路地の先頭付近を走っていた。前にいた1年と6年の担任教諭2人をいつの間にか追い越していた。
 目指す北上川の堤防道路(三角地帯、標高6〜7メートル)に通じる県道はすぐ目の前。校庭から移動した距離はわずか180メートルほどだった。

 突風が吹く。前方に見えた黒い水が最初は何なのか分からなかった。すさまじい勢いで迫ってくる。
 津波だ−。
 釜谷地区に立ち並ぶ民家を次々に破壊し、猛威を振るう。コバルトブルーの海や、なぎさに砕ける白波とは違う。大量の土砂や岩、木々、家々の残骸などあらゆる物体が交じる黒い塊だ。
 「逃げなきゃ」
 振り返った只野さんは、今来た路地を全力で駆け戻った。付近にいた高学年の児童がほぼ同時に反転する。幅1メートルほどの道に数十人が密集し、衝突は避けられない。
 列の後方にいた低学年の児童は、大慌てで戻ってくる上級生の姿に戸惑っていた。腰を抜かし、立ち上がれない子もいた。
 誰かを助ける余裕はなかった。「助かりたい」。只野さんは必死だった。
 「津波だ」「やべえって」
 言葉にしようとしたが、声にならなかった。足音が消えた。飛行機が耳元を通過しているかのようなごう音に包まれ、振動で恐怖が増殖する。
 「山だ、山に逃げろ!」
 男性教務主任(56)が叫んだ。列の最後尾から走ってきたとみられる。
 助かった男子児童の1人は教務主任の声を聞いて逃げ、山に登ろうと2、3歩足を出した瞬間に津波にのまれた。震災後、同級生にそう話している。
 濁流が勢いを増す。子どもたちが「ボンッ」と水の圧力で跳ねられていく。
 只野さんは真っすぐ斜面を駆け上がった。木々がうっそうと茂り、傾斜がきつい。ほとんど壁だ。雪で足を取られ、地面に指を突っ込む。3〜4メートル登り、左を振り向いた。校庭にまだ津波は来ていない。「助かる」。視線を戻した瞬間、全身を強く圧迫された。
 一瞬、気を失った。黒い水が運んだ土砂に体が埋まった。気が付いたのは高さ10メートルほどの斜面。登ろうとした場所から10メートル以上流され、上方に5メートル以上押し上げられていた。
 同級生の男子児童は偶然流れてきた冷蔵庫を舟の代わりにして助かった。只野さんを見つけ、右手で枝をつかみながら骨折した左手で掘り起こした。

 2人で少し上がった。見渡す限り濁流が覆い尽くしていた。小学校と診療所だけを残し、生まれ育った町が消えていく。
 午後3時36分40秒。
 学校で見つかった3台の時計のうち、最初の針が止まった。電気系統が水没した時刻とみられる。他の2台は37分46秒と38分53秒で停止した。
 河口から学校までの距離は約3.7キロ。河川堤防を越えた津波と陸上を遡(そ)上(じょう)してきた津波が、ほぼ同時に大川小を襲ったとみられる。海岸到達から10分前後だった。
 当時、学校にいて生還したのは児童4人と教務主任のわずか5人。全校児童108人中、74人と教職員10人の未来が失われた。
      ◇     
 登校から下校までを学校管理下と言う。「行ってきます」から「ただいま」を言うまでの間だ。東日本大震災まで、学校は最も安全な場所だと信じられていた。第5部は大川小に巨大津波が襲来した瞬間と生還者が過ごした一夜を描く。(大川小事故取材班)

[大川小の津波事故]2011年3月11日午後2時46分、宮城県沖で起きたマグニチュード(M)9.0の東北地方太平洋沖地震による津波で、宮城県石巻市大川小(児童108人)の児童70人が死亡し、4人が今も行方不明。学校にいた教職員11人のうち、男性教務主任を除く10人も犠牲となった。当時校長は休暇で不在。学校は海抜1.1メートルで北上川河口から約3.7キロ離れ、市の津波ハザードマップで浸水予想区域外だった。地震発生から約50分後に第1波が到達し、最高水位は高さ約8.7メートルに達した。学校管理下で戦後最悪の事故とされる。


関連ページ: 宮城 社会 大川小

2018年03月06日火曜日


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