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<震災7年>大川小背負い生きる 只野哲也さん 柔らの道が心の支え

柔道部の後輩から卒業記念の写真を贈られ、笑顔で見詰める只野さん(左から3人目)=2018年3月1日、石巻工高
宮城県高校総合体育大会の男子個人100キロ級で、力強く戦う只野さん=2017年6月5日、大崎市古川総合体育館
元気に自転車をこぐ只野さん。英昭さんが温かく見守る=2011年6月16日

 柔らの道が少年の心を支えてきた。
 東日本大震災の津波によって児童74人、教職員10人が犠牲になった石巻市大川小で、九死に一生を得てから7年。石巻工高3年の只野哲也さん(18)は1日、卒業式に臨んだ後、柔道部の仲間と集まった。

<多くの仲間犠牲>
 苦楽を共にしてきた1〜3年の部員ら約30人を前に、前主将の只野さんは涙をこらえて言った。「このチームで柔道ができて、俺は本当に幸せでした」
 人生が一変した2011年3月11日。当時は小学5年生だった。小学校に迎えに来た母しろえさん=当時(41)=、一緒に校庭にいた3年の妹未捺(みな)さん=同(9)=、祖父弘さん=同(67)=が津波にのまれ、帰らぬ人となった。残された父英昭さん(46)と祖母の3人で暮らす。
 柔道を始めたのは、大川小1年の時。未捺さんと一緒に地元のチームに通い、基本的な技や礼儀を学んだ。震災当時所属していた河北柔道スポーツ少年団のメンバーも16人のうち、未捺さんら9人の命が津波で失われた。
 スポ少代表の鈴木晋二さん(40)は、亡くなった子どもの親から「生き残った子どもたちの面倒を最後まで見てほしい」との願いを託された。
 鈴木さんは只野さんに告げた。「重荷になっかも分かんねぇけど、生き残ったことを自覚して、背負っていってもらえればうれしい」
 古里の大川地区は北上川が流れ、ヨシが風にそよいでいた。春には小学校で咲く桜がきれいだった。只野さんがあの日まで暮らした地域にはもう、人が住めない。
 只野さんは遠く離れた石巻市内の住宅に移り、近くの中学校に通った。学校では震災のことは多く語らず、必死に柔道に打ち込んだ。練習で「ふがいない」と涙をこぼした日もある。

<石巻工高で主将>
 15年の春。強い学校で柔道がしたいと、石巻工高柔道部に入った。団体戦で東北大会に出場した先輩たちがそろっていた。
 厳しい練習はついていくのがやっとだった。身長約175センチ、体重90キロ台前半。階級は100キロ。より屈強な相手に勝つため、体作りや技の習得に励んだ。
 2年の夏、半世紀の歴史を刻む柔道部の主将に就く。同学年の6人と力を合わせてチームをまとめた。後輩たちには技や礼節を教えた。「同じ学年の仲間とは3年間、一人も欠けず一緒にいられた。先生方は弱かった自分を見捨てず、しっかりと育ててくれた」
 震災発生から6年10カ月がたった1月中旬、被災した大川小校舎を訪れた。傍らには柔道部監督の大内輝貞さん(43)がいた。恩師を案内しながら、あの日、母校で起きた悲しい出来事、当時の思いを明かした。
 激震が襲った際にいた5年生教室の場所、校庭から避難する途中に迫ってきた黒い水と土煙、教頭先生の「早く避難して」という声、とっさに逃げたこと…。
 大内さんは「哲也と出会って、震災から目を背けずに一生懸命頑張ることを学んだ」と感謝する。
 只野さんにとって、大川小校舎は仲間や妹らと過ごした思い出の場所だ。柔道で不調な時や気持ちが沈んだ時、心を奮い立たせてくれる特別な空間でもある。
 新年度、宮城県内の大学に進学し、機械工学を学ぶ。柔道も続ける。いろいろな人と出会い、自分にないものを吸収したい、と大学生活を思い描く。
 18歳の春。未来をひらく。(石巻総局・水野良将)


関連ページ: 宮城 社会 大川小

2018年03月11日日曜日


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