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<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(1)「官名乗る賊徒に従わず」

[はらだ・いおり]1946年、京都市生まれ。大阪外語大卒。広告代理店勤務後に独立。編集ライターなどを経て2005年に作家デビュー。主な著書に「明治維新という過ち」「官賊と幕臣たち」「大西郷という虚像」など。東京都在住。
戊辰戦争後の若松城(鶴ケ城)。1カ月にわたる籠城戦で受けた砲弾跡が生々しく残る(会津若松市蔵)

 東北は今年、戊辰戦争が勃発してから150年の節目を迎えている。各地を戦禍に巻き込んだ戦争はなぜ起きたのか。奥羽諸藩は本当に「賊軍」だったのか。東北近代の歩みにどのような影響を与えたのか。研究者らの視点を通し、改めて戊辰戦争を問い直す。(会津若松支局・跡部裕史、福島総局・大友庸一)

◎革命に大義はあったか(上)作家・原田伊織さん

 <「明治維新という過ち」などの著書で知られる作家の原田伊織さん(71)は、東北における戊辰戦争を「討幕戦争とは別物だった」と指摘する>

◎私怨を晴らす戦

 いわゆる戊辰戦争を「討幕戦争」と位置付けるなら、会津戦争などは討幕とは無関係で性格が異なるというのが私の主張だ。1868年4月4日、江戸城に東征軍の勅使が入り、徳川家への沙汰状を公式に交付した。この日をもって徳川政権は公式に終わった。
 東征軍の江戸入城(11日)や大総督府有栖川宮熾仁(たるひと)親王の入城(21日)など、どのタイミングをとっても4月中には江戸幕府は歴史の幕を閉じたと断定できる。だから、その後の東北での戦争は論理的に討幕戦争とは言えない。

 <それでもなぜ東北戦争は起きたのか>

 平たく言えば報復だ。会津藩主松平容保(かたもり)が京都守護職時代、テロ活動を妨害された薩摩や長州、土佐藩の恨みだ。大義名分がない私怨(しえん)を晴らす戦だ。恭順が拒否された会津藩は戦うしかなかった。
 会津は奥羽鎮撫(ちんぶ)使に何度も嘆願書を出したが、下参謀の世良修蔵が拒否する。容保の斬首にこだわった。和平工作を行った仙台藩や米沢藩なども、世良の品性の欠ける行状もあって「ならば戦うしかない」という流れになる。
 錦の御旗を振りかざして進軍した官軍は、奥羽諸藩も簡単に恭順すると読み違えた。だが、奥羽諸藩の思考回路は「長いものには巻かれろ」ではなかった。「朝廷には恭順するが、官を名乗る賊徒には従わない」という心理だった。
 官軍を名乗った薩長に、もう少しまともな人材がいたら戦争は避けられた。会津戦争や二本松戦争は無益な殺生だった。ただ、「不幸だ」だけで終わらせては意味がなく、歴史から何かを学ぼうとするなら、史実は検証されるべきだ。

 <東北の諸藩は「朝廷に逆らった賊軍」という「官軍史観」が今も残る>

◎前政権を全否定

 新政権は前政権、前時代を全否定し、自分たちを正当化する歴史を書く。これは古今東西を問わずよくあること。ただ多くの民族は一定期間を経て誤った歴史を修正する。日本人はそれをやらずに大東亜(太平洋)戦争に突き進み、国家を滅ぼした。
 戦後も検証されず、そこへ連合国軍総司令部(GHQ)支配の鬱屈(うっくつ)した社会心理を打ち払うかのような作品とともに司馬遼太郎さんが登場し、たちまち国民的作家となった。大学の大先輩で尊敬する面は多々あるが、吉田松陰、坂本龍馬をはじめ、明治維新に関して書いているものは大半がフィクション。「官軍史観」に「司馬史観」が重なり、明治維新に対する誤った理解が定着してしまった。

 <政府は「明治に学ぶ」として、国の行事に150年の冠を付ける考えだ>

 同じようなことが言われた時代があった。軍国主義がピークに達した昭和10年代だ。「明治精神への回帰」をうたう「昭和維新運動」が燃え盛り、もてはやされたのが吉田松陰の思想だ。
 そこから日本の侵略戦争が始まる。日本軍の進出した国や地域は松陰が唱えた対外侵出エリアと全くと言っていいほど一致する。日本に近代をもたらしたとされる明治維新という出来事を、われわれは一度白紙に戻し、冷静に総括しなければならない。

[松平容保]1836〜93年。会津藩9代藩主。62年に京都の治安維持のために新設された京都守護職に就く。「8月18日の政変」で長州派を追放するなどした功績で、孝明天皇から絶大な信頼を得た。
[世良修蔵]1835〜68年。長州藩士。奇兵隊出身。奥羽鎮撫総督府下参謀を務め会津討伐を声高に主張。「奥羽皆敵」と記した密書などが仙台藩士らの怒りに火を注ぎ、福島藩内で捕らえられ殺害された。


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2018年03月21日水曜日


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