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<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(2)新政府に国の青写真なし

二本松城を巡る戦いでは、二本松藩の12〜17歳の少年たちも戦闘に加わった。「二本松少年隊」の史実を伝える銅像が城跡に立つ=二本松市

 東北は今年、戊辰戦争が勃発してから150年の節目を迎えている。各地を戦禍に巻き込んだ戦争はなぜ起きたのか。奥羽諸藩は本当に「賊軍」だったのか。東北近代の歩みにどのような影響を与えたのか。研究者らの視点を通し、改めて戊辰戦争を問い直す。(会津若松支局・跡部裕史、福島総局・大友庸一)

◎革命に大義はあったか(下)作家・原田伊織さん

 <戊辰戦争から150年。奥羽諸藩を「賊軍」におとしめた明治維新の実像をどうみるか。作家の原田伊織さん(71)は「偽りの革命」だったと言い切る>

◎模倣にすぎない

 テロリズムを背景にしたクーデターにすぎない。「明治維新がなければ植民地化されていた」「日本を近代に導いた」といった歴史認識は真っ赤なうそだ。幾つもの隠蔽(いんぺい)や捏造(ねつぞう)を繰り返さなければ、そのような認識にはならない。
 大隈重信が維新後に語った言葉が象徴的だ。「われわれがやっていることは小栗忠順(ただまさ)の模倣にすぎない」と言っている。「明治維新至上主義者」とも言える司馬遼太郎さんですら小栗を「明治の父」と評価した。時代の違う2人が同じことを言っている。
 桂小五郎(後の木戸孝允)、西郷隆盛、大久保利通が「維新三傑」と呼ばれている。だが彼らは幕府を挑発し戦争を起こしたものの、その後の国の青写真を持っていなかった。だから倒幕後に個々人は強烈な虚脱感に襲われ、組織は腐敗していった。

 <尊皇攘夷(じょうい)の旗印の下、列強との不平等条約を正すために倒幕に踏み切った印象が定着している>

 「尊皇」は武家社会の教養、常識として当たり前の概念だった。(薩長の)偽勅や偽の錦旗が効力を発揮し、幕府や諸藩が恭順していくのも、そういう背景があったから。佐幕人の高い教養に裏打ちされた尊皇意識を背景として、幕末になって長州人、薩摩人が天皇を政治の表舞台に引っ張り出して「政争ツール」としてうまく利用した。

◎外面だけの勤皇

 桂は「玉を動かし」「玉を抱く」などと発言している。長州藩は天皇の拉致を計画し、御所に大砲を放つ暴挙に及んだ。外面だけの勤皇だ。薩摩・長州は「攘夷」と叫んでいる最中に大英帝国の支援を受けた。「尊皇攘夷」は単なるキャッチフレーズ。政権を奪うやいなや卑しいほどの西洋崇拝に走った。
 倒幕勢力は不平等条約の中身も分かっていない。岩倉使節団は条約改正の意識や目的を持って出発したものではない。全権委任状すら持っていなかった。そもそも政府首脳が2年も国を空けてどうするのか。新政権になって新しくできたのは、西郷、大隈、江藤新平らの留守政府による制度がほとんどだ。

 <新政府は富国強兵の名の下、殖産興業を進めた>

◎長州型政権 今も

 新政府は、国の予算で造ったものを商人や同郷の士に払い下げるなどして長州、薩摩出身者らに甘い汁を吸わせた。尾去沢銅山事件などが象徴的。歴史学者の毛利敏彦氏の言葉を借りればまさに「長州汚職閥」だ。
 「明治6年の政変」(1873年)で下野した西郷の言葉が残っている。「我脱出する人間虎狼(ころう)の群れ」。福沢諭吉も明治の要人を「人面獣心」と評した。面識のない2人が似通ったことを言っている。それほど新政府が腐敗していた。彼らが何のグランドデザインも持っていなかったことにも通じる。
 明治維新50年は寺内正毅内閣、100年は佐藤栄作内閣、そして150年は安倍晋三内閣と、いずれも長州内閣であることは単なる偶然だと思いたい。だが、森友・加計(かけ)問題などの官民癒着に限らず、展望のないキャッチフレーズを連呼するところなど、「長州型政権」は今も続いていると言わざるを得ない。

[小栗忠順]1827〜68年。幕臣。外国奉行、勘定奉行などを務め、幕府の財政改革、軍制改革を進める。大政奉還に反対し、戊辰戦争では将軍徳川慶喜に徹底抗戦するよう訴えた。新政府軍に捕らわれ処刑された。
[岩倉使節団]1871年12月〜73年9月、岩倉具視を特命全権大使とし、欧米を歴訪した使節団。政府首脳や留学生らを含む107人で構成された。
[尾去沢銅山事件]1872年、長州藩出身の大蔵大輔(大蔵省次官)井上馨が尾去沢銅山(鹿角市)を私物化しようと鉱山を没収した事件。井上は訴えられ逮捕寸前まで追い込まれたが長州閥が抵抗し、辞職するだけで罪を問われなかった。


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2018年03月22日木曜日


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