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<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(4)孝明天皇崩御一転「賊」に

孝明天皇が松平容保に贈った御宸翰の写本。会津藩への感謝の思いがつづられている(会津若松市蔵)

◎会津藩の悲劇なぜ起きた?(下)作家・中村彰彦さん

 <作家の中村彰彦さん(68)は、京都守護職を務めた会津藩主松平容保(かたもり)について「誠実な人柄で、孝明天皇の信頼が厚かった」と話し、天皇崩御で会津藩を取り巻く形勢が急激に変わっていったと指摘する>

◎容保に感謝の意

 1863年2月、容保が京都に入ると、テロが鳴りを潜めた。容保が天皇との信頼関係を確実にしたのが同年の「8月18日の政変」。会津、薩摩藩は天皇の命を受け、過激な尊皇攘夷派の長州藩士や公家を京都から追放した。
 喜んだ天皇は、容保に感謝の意を伝える御宸翰(ごしんかん)と和歌2首を与えた。容保は死ぬまで御宸翰を肌身離さず持っていた。「賊と言われても、先帝と自分の関係は知る人ぞ知る」と言いたかったのだろう。
 御宸翰については明治時代、長州出身の陸軍中将三浦梧楼がその存在を示す本の出版を金を払って差し止めた。出版されれば「戊辰戦争は官軍が賊軍を討った正義の戦い」という薩長寄りの歴史観が崩れる、と考えた。

 <64年の池田屋事件、禁門の変で、会津藩は長州藩の恨みを買う>

 67年に孝明天皇が亡くなった。毒殺説があるが、天皇が代替わりした途端、容保は「幕賊」の一味と呼ばれるようになる。
 容保が「賊」とされた最初の文書は薩摩、長州藩に出された「討幕の密勅」だが、明治天皇の署名、押印「御名御璽(ぎょめいぎょじ)」がない。討幕派公家3人の署名は1人の筆跡だ。明治維新は偽文書から始まった。
 江戸城開城後、容保は将軍徳川慶喜の代わりに幕賊の首魁(しゅかい)にされる。会津藩は恭順姿勢を示したが、新政府は聞く耳を持たない。会津藩は理不尽な言い掛かりをつけられ、1カ月の籠城戦を強いられた。
 容保は良識的に戦った。戦況が不利になった時、プロシア人商人がベトナムから雇い兵を連れてくることを提案するが、内戦にとどめるため言下に断った。最後の一兵まで戦うことはせず、約5000人が城から出た。次世代を残すために戦をやめたのだと思う。

 <戦後、新政府に東北差別の意識が残った>

◎明治政府の恥部

 最も虐げられたのは会津藩で、領地23万石を全部没収される滅藩処分を受けた。69年に斗南(となみ)藩3万石(青森県下北半島など)として復活を許されたが、当時の稲作の北限より北の土地で「死んでくれ」と言っているのと同じだ。明治政府の政策の恥部だった。
 77年の西南戦争で手柄を立てた元会津藩家老山川浩が陸軍少将に昇進した。昇進決定の会議を欠席した長州出身の陸軍中将兼内務大臣山県有朋は「山川は会津ではないか」と怒った。差別は太平洋戦争まで続いた。
 会津の人々は苦難にめげず、各方面で名を残した。山川の弟で東京、京都、九州の3帝大で総長を歴任した山川健次郎ら、教育界で活躍した人が多かった。第1次大戦中、板東俘虜(ふりょ)収容所(徳島県鳴門市)所長の松江豊寿(とよひさ)はドイツ人捕虜を人道的に扱い、たたえられた。
 山川捨松や新島八重らは篤志看護師として活躍した。彼女たちは鶴ケ城に籠城し、親しい人が死んでいくのを目の当たりにした悔しさがあった。会津の人々は、戦の後も目的を持ち、毅然(きぜん)として知的に生きた。

[池田屋事件]1864年7月、京都の旅館「池田屋」に集まった長州藩などの過激派志士が新選組に襲撃され、多数の死傷者を出した事件。
[禁門の変]1864年8月、池田屋事件に怒った長州藩急進派が挙兵し、京都・蛤御門で会津藩などと交戦、敗走した事件。
[西南戦争]1877年、下野した西郷隆盛が挙兵した士族の武力反乱。政府軍に阻まれ敗走した。
[山川捨松]1860〜1919年。山川浩、健次郎兄弟の妹。薩摩藩出身の大山巌と結婚。「鹿鳴館の華」と言われた。
[新島八重]1845〜1932年。戊辰戦争時に籠城して銃を取り戦う。同志社大学創設者新島襄の妻。


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2018年03月24日土曜日


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