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<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(5)天皇を抱き込み権力掌握

白虎隊自刃の石版画が祭られている山口県萩市の唐樋地蔵堂。会津藩と長州藩の因縁を超え、地域の人が供養を続けている
いちさか・たろう 1966年11月、兵庫県芦屋市生まれ。大正大文学部卒。至誠館大特任教授、防府天満宮歴史館顧問。著書に「長州奇兵隊」「明治維新とは何だったのか」など。山口県下関市在住。

◎長州藩はなぜ官軍になったか(上)萩博物館特別学芸員・一坂太郎さん

 <幕末の動乱期に一度は「朝敵」となった長州藩は薩摩藩と手を組んで倒幕に成功する。長州藩をはじめとする西南諸藩がなぜ「官軍」となり得たのか。萩博物館(山口県萩市)の特別学芸員一坂太郎さん(51)は「天皇を抱き込んだことが大きかった」と話す>

<嘆願はねつける>
 長州藩にとって許せなかったのは1863年の「8月18日の政変」だった。当時、孝明天皇は長州藩や急進派公家ら攘夷(じょうい)派の操り人形にされていた。
 天皇は権威を利用され、大和行幸などの勅を出す。攘夷派の暴走を危険視する天皇の真意を知った会津、薩摩藩などが政変を起こし、攘夷派を京都から駆逐する。
 天皇は「18日以降の勅は全て本物」と政変の正当性を認めたが、それ以前の勅は「真偽不分明」とし、どれが「真」でどれが「偽」かは分からなかった。長州藩は「天皇の御前で申し開きをしたい」と何度も嘆願したが、はねつけたのが会津藩だった。
 会津藩は「天皇が駄目というから駄目」と話し合いを一切させなかったため、長州藩は会津を恨むようになった。
 戊辰戦争では、逆に会津藩が謝罪恭順を嘆願する立場になる。仙台藩は「なぜ長州は許されたのに、会津は許されないのか」と新政府に言ったが、相手にされなかった。政変で会津が同じことをしたからだ。
 歴史は話し合いがなくなった時に狂う。太平洋戦争時の軍部の増長など、その後の歴史にも言える。理屈が通らなくなり、感情や数の力、雰囲気で時代を押そうとすると、「悔いが残る歴史」になると思う。

<幕末動乱のキーマンは孝明天皇だった>

◎どちらが取るか
 会津藩主の京都守護職松平容保(かたもり)は孝明天皇から個人的に信頼されていた。一方、長州藩は毛利家が天皇家の子孫とされ、伝統的に天皇家は忠義の対象だった。天皇への忠誠心を全国版にしようとしたのが明治の国家づくりだった。
 長州藩は禁門の変で御所に発砲したため、孝明天皇は幕府に長州藩を討つよう命じた。この第1次長州征伐は「幕府対長州」ではなく、「天皇対長州」の戦いだった。
 67年に孝明天皇は崩御する。会津藩を信頼し、長州を憎んだ天皇の死は政局を揺さぶる。長州藩主は「玉(ぎょく)」を奪われないよう、薩摩藩士の大久保利通に注意を与える。玉は天皇を指す隠語。天皇の旗印をどちらが取るかが焦点だった。
 公家の岩倉具視らの画策で武力討幕派が朝廷を乗っ取り、68年1月、明治天皇が王政復古の大号令を下す。新政府は一度の会議も開かずに誕生した。開けば、将軍徳川慶喜がトップになっていたからだ。「天皇の意思だから」が絶対的な一言になる天皇制近代国家の始まりとなる。

<鳥羽・伏見の戦いで、新政府軍は天皇の軍であることを示す錦旗を掲げた>

◎政治の駆け引き
 日本人は水戸黄門のような分かりやすさが好きで、印籠を見て「偽物だ」という人はいない。錦旗も皇室に代々伝わる旗ではなく、岩倉が作らせたものだったが、疑う人はなかった。効果は絶大で、旗一枚で官と賊、善と悪を色分けした。錦旗を見た各藩は雪崩を打って新政府側に付いた。
 江戸時代の天皇は基本的に政治の権限がなかったが、幕末は敵も味方も天皇を神格化した。新政府が幕府を倒せたのは、天皇を抱き込んだことが大きかった。奥羽越列藩同盟が負けたのも、政治の駆け引きで差があったからだろう。

[大和行幸]攘夷派の討幕計画。天皇が神武天皇陵を参拝し、攘夷の軍議を開くことを企てた。
 王政復古の大号令 倒幕派が天皇親政の新政府樹立を宣言した政変。幕府を廃止、政府機関として総裁など3職を創設した。


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2018年03月25日日曜日


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