宮城のニュース

<止まった刻 検証・大川小事故>第6部 地獄(1)無事の願い打ち砕く惨状

震災から7年を迎えた3月11日朝の大川小。かつての家並みは消え、更地に水たまりが広がっていた=石巻市釜谷

 石巻市大川小は東日本大震災の津波で壊滅した。「きっと避難しているはずだ」。保護者たちの願いは無残に打ち砕かれ、児童70人が死亡、4人が行方不明となり、児童を保護していた教職員10人も犠牲になった。第6部は過酷を極めた遺体捜索の現場と、行方不明の児童を待つ遺族の終わらない苦悩の日々を追う。(大川小事故取材班)=第6部は5回続き

 漆黒の夜が明けた。
 児童が目指した北上川の堤防道路(三角地帯)にうずたかく積み上がったがれきに、女の子が引っ掛かっていた。
 ランドセルを背負い、頭にはヘルメット。いつもと変わらぬ登下校の身なり。だが、動かない。別の場所でもがれきの山の隙間から、小さな手や足がいくつも見えた。
 2011年3月12日朝、6年の三男雄樹君=当時(12)=の父佐藤和隆さん(51)は別の保護者と2人で三角地帯に立った。大川小がある釜谷地区を見渡せる。
 流木や土砂、家の残骸が視界を埋め尽くす。残った建造物は大川小と釜谷診療所だけ。ともに鉄筋コンクリート製の堅牢(けんろう)な建物だ。200以上、軒を連ねていた釜谷の町並みは一晩にして消えた。
 「大川小学校、孤立」
 「児童ら200人が校舎2階に避難」
 前夜、ラジオなどで流れたとされる情報が頭を駆け巡る。大川小は2階までがれきに埋もれ、教室には流木が突き刺さっていた。見るに耐えないこの光景のどこに200人がいるのか。
 「雄樹!」
 「誰かいないか!」
 雄樹なら山に逃げたはずだ。佐藤さんは息子の名前を叫びながら大川小の裏山に登った。返事はなかった。山を下りると、石巻市河北総合支所の職員に会った。「子どもたちは?」。職員は首を横に振った。
 6年の長男大輔君=当時(12)=の母今野ひとみさん(47)は同日午前、学校から約1.5キロ山側の入釜谷生活センターで5年の男子児童に会った。津波にのまれて助かったという。大けがをしている。
 「大輔、分からない?」「一緒に流された。大ちゃんは浮いていた」
 今野さんは初めて事態の深刻さを悟った。
 北上川の堤防が約800メートルにわたって決壊し、大量のがれきが行く手を阻む。保護者の多くは12日も大川小にたどり着けずにいた。わが子の無事を案じながら自宅や避難所、車中で過ごしていた。
 「先生たちと一緒だから大丈夫」「きっと、裏山に逃げている」「寒いだろうな」「おなかすいただろうな」
 後に学校管理下で戦後最悪とされる事故が起きていたことを、誰一人想像もしていなかった。
 12日朝、明るいニュースが飛び込んできた。
 「子どもたちが自衛隊のヘリで運ばれてくる」
 父親たちが学校から約5キロ上流の福地地区の堤防に即席のヘリポートを造った。母親たちは豚汁やおにぎりを用意し、子どもたちの帰りを待った。
 上空をヘリが飛び交う。そのたびに空を見上げ、期待が膨らむ。何時間も待ったが、ヘリは来なかった。
 津波にのまれながら奇跡的に助かった5年の只野哲也さん(18)は12日朝、大人たちと野宿した裏山を下りた。
 田んぼや道端に遺体がごろごろ転がっていた。目はけがで充血し、視界はぼやけていたが、嫌でも入ってくる。空を覆い尽くした雲は消えていた。「こんな日に晴れじゃなくていいのに」。春を思わせる日差しが恨めしかった。
 身を寄せた知人宅で若い女性が泣き崩れていた。津波にのまれた際、胸に抱いていた赤ん坊を波にさらわれたという。
 「地獄だ」
 只野さんは思った。

[大川小の津波事故]2011年3月11日午後2時46分、宮城県沖で起きたマグニチュード(M)9.0の東北地方太平洋沖地震による津波で、石巻市大川小(児童108人)の児童70人が死亡し、4人が今も行方不明。学校にいた教職員11人のうち、男性教務主任を除く10人も犠牲となった。当時校長は休暇で不在。学校は海抜1.1メートルで北上川河口から約3.7キロ離れ、市の津波ハザードマップで浸水予想区域外だった。地震発生から約50分後に第1波が到達し、最高水位は高さ約8.7メートルに達した。学校管理下で戦後最悪の事故とされる。


関連ページ: 宮城 社会 大川小

2018年03月26日月曜日


先頭に戻る