カンヌ国際映画祭報告2007

3.医療問題に切り込む「シッコ」

2007/5/21

 ここ数年、カンヌではドキュメンタリーの比重がどんどん高まってきています。昨年はデイヴィス・グッゲンハイムの「不都合な真実」が特別上映されて大きな話題になりましたし、3年前の2004年にはマイケル・ムーアの「華氏911」がパルム・ドールを獲ったことはご存知の通りです。

 そのマイケル・ムーア監督待望の新作「シッコ」が19日に上映されました。今回、彼が切り込むテーマはアメリカの医療問題。アメリカには国が運営する保険制度がなく、民間の保険に頼っているため、保険に入れない貧しい人が満足に治療を受けられないことはよく知られていますが、ムーア監督が「シッコ」で問題にしているのは、保険に入っていても満足に治療も受けられない人が大勢いる、という驚くべき事実でした。

 「シッコ」によれば、ニクソン大統領の時代に保険会社に有利なように法律が改正され、契約書への記載の不備や、効果が定まらないという理由で先端治療への支払いが拒否できるようになり、その結果、患者は文字通り、生きるか死ぬかの選択を迫られるのです。しかも、治療の甲斐あって生き残れたとしても、高額な医療費の支払いで財産を失ってしまう人が大勢いる、そんな恐怖の実態を、独特のユーモアを交えながら次々に紹介していきます。

 実は「シッコ」には、ムーア監督の宿敵ブッシュ政権に自分への攻撃を許す弱点が含まれています。それは、ワールド・トレード・センターの瓦礫の中で、犠牲者を捜すために活動した消防士や看護婦たちで、その後の心的外傷後ストレス障害や粉塵による呼吸器の損傷で仕事を辞めざるを得なくなり、その結果、失業して保険が切れ、満足な治療が受けられなくなった人たちを連れて、“アメリカの領土で唯一、最先端の治療が無料で受けられる場所”、キューバのグァンタナモ基地へ行く場面です。

 “テロ事件を起こしたアルカイダの犯人には基地で手厚い医療が受けられ、被害者を救おうとした英雄は見捨てられているのはおかしい”というムーア監督の論理は、私には筋が通っていると思われるのですが、もちろん基地内には入れてもらえず、かわりにハバナの病院で、ただ同然で治療を受けることができた、という皮肉な落ちがついています。

 しかし、この場面は、キューバに対するアメリカの経済制裁の方針に触れるとされ、米財務省から説明を求められているムーア監督は、この後、悪くすれば刑務所に入れられる怖れもあるのというのです。ニューヨーク同時多発テロ事件前後のブッシュ政権の対外政策を激しく非難した「華氏911」で、大きな成功を収めると同時に、大きな敵をも作ってしまったムーア監督ですが、記者会見では、「これまでの作品が嫌いな人も、この映画の訴える問題には、ぜひ耳を傾けて欲しい」と語っていました=写真=。

 日本の健康保険制度を受益者負担へと方向を転換させ、お年寄りや弱者に大きな負担を強いようとしている日本政府の関係者にも、ぜひ見てもらいたい映画だ、と私は思います。

筆者紹介

齋藤敦子さん 映画評論家。パリで映画編集を学んだ。フランス映画社宣伝部から90年にフリーとなる。G・ノエ、グリーナウェイの諸作品を字幕翻訳。最新作は「麦の穂をゆらす風」。「ピアノ・レッスン」(新潮文庫)「奇跡の海」(幻冬舎文庫)などの翻訳書も。