東京国際映画祭2007

2.“東京らしさ”はどこに? − コンペ部門(上) −

2007/10/26

 前回のレポートから間があいてしまったことをお詫びします。海外の映画祭ならば、朝から会場に出かけて映画を見ていればいいのですが、東京では普段の生活との掛け持ち。なかなか思うようにはいきません。映画を仕事とする私でさえそうなのですから、普通の映画ファンが平日の昼間に映画祭へ映画を見に行くことがいかに大変か、改めて思い知りました。そんな困難さを越えて、会場へ足を運ばせるほどの魅力を映画祭がどう提供していくか。映画祭の目標は、集約すればそこになるような気がします。

 映画祭の華は赤絨毯を歩くスターたち、ということになるかもしれませんが、映画祭の中心は何と言ってもコンペティション。映画祭の成功の可否はコンペ作品の充実にあるといっても過言ではありません。ところが、映画祭が各国で盛んになった現在、いい作品を集めることが次第に難しくなってきて、どの映画祭でも頭の痛い問題となっています。今年、コンペ作品を選定するのは、今年ゼネラル・プログラミング・ディレクターに就任した現・角川映画取締役相談役の黒井和男氏と昨年まで日本映画ある視点部門を担当していた矢田部吉彦氏。発足以来20年、様々な問題点を指摘されてきた東京映画祭ですが、なかでもコンペ作品への不満が最も大きいのも事実。今年、どんな作品が並ぶのか注目でした。

 結論から先に言ってしまうと、コンペ作品を通じて東京がどんな映画祭を目指しているのか、作品全体から見えてくる“東京らしさ”は今年もほとんど感じられませんでした。では個々の映画について見てみましょう。

「鳳凰 わが愛」の一場面

 オープニング作品の「鳳凰 わが愛」は、中井貴一の初プロデュース作品で、日中合作。1920年代の中国東北部で、刑務所の中で出会った男女の30年に渡る純愛を描いたもの。一言で言えばメロドラマですが、清朝、満州事変による満州国家成立、国民党政府から共産党政府へ、移り変わっていく激動の時代を、刑務所という孤立した場から描く、という視点が面白いと思いました。

 「ハーフェズ ペルシャの詩」は、ハーフェズ(コーラン暗唱者)となった青年と、壁越しに彼の詠む詩を聞いて、顔も見ないで恋に落ちた娘ナバートの純愛を描いたイラン版ロミオとジュリエット。麻生久美子がナバートを演じている。「トゥルー・ストーリー」「少年と砂漠のカフェ」など、ドキュメンタリータッチの演出で評価されてきたアボルファズル・ジャリリですが、今回はハーフェズの生き方か、ナバートとの恋愛か、どちらにも絞りきれないまま、十分に描ききれなかったように思います。

 試写で矢田部氏が一押しと言っていた「デンジャラス・パーキング」(本当は、公の場で、選定する側が選定した作品についての評価を口にすべきではありませんが)は、「スライディング・ドア」のピーター・ハウイットの監督・主演作で、ワールド・プレミア作品。アルコール依存症で破滅的な生活を送っている映画監督(ハウイット)が、美しいチェロ奏者の女性(サフロン・バロウズ)と出会って人生を立て直そうとするが…、というコメディ映画。かの有名なイーリング撮影所で撮られているので、現代版イーリング・コメディと呼びたいところですが、残念ながら、アレック・ギネスの名作を輩出した元祖イーリング・コメディはおろか、「スライディング・ドア」にも及ばない、平凡な作品でした(実は、ここでふと、矢田部氏の映画眼に疑いの念が湧いてきてしまったのです)。

 「再会の街で」は、歯科医として成功したアラン(ドン・チードル)が、ニューヨークの街角で学生時代のルームメイト、チャーリー(アダム・サンドラー)に再会し、9.11で愛する家族を失って以来、外界とのつながりを絶った彼の心を開き、再び友情をはぐくむまでを描いた作品。映画を見ていて、思わずテリー・ギリアムの「フィッシャー・キング」を連想するくらい、アランとチャーリーの関係は、そっくりジェフ・ブリッジスとロビン・ウィリアムズの関係と重なるのですが、監督のマイク・バインダーは、ギリアムほどファンタジーに傾かず、世界の崩壊パラノイアにもならず、真面目に友情の再構築を描いています。では、この作品の問題は何かといえば、これからすぐにソニー・ピクチャーズが日本公開するアメリカ映画を、映画祭のコンペティションで上映する意義があるのかどうか、でしょう。この辺の匙加減が難しいところです。(つづく)

筆者紹介

齋藤敦子さん 映画評論家。パリで映画編集を学んだ。フランス映画社宣伝部から90年にフリーとなる。G・ノエ、グリーナウェイの諸作品を字幕翻訳。最新作は「麦の穂をゆらす風」。「ピアノ・レッスン」(新潮文庫)「奇跡の海」(幻冬舎文庫)などの翻訳書も。