400年の時を超え、正宗が夢を描いた同じ空の下へ。平成青少年遣欧使節団派遣プロジェクト

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河北新報紙面特集


伊達政宗の夢 Vol.11

対談:太田 尚樹、濱田 直嗣

ハポンさんになった侍たち

 スペインの小さな町に住むハポンさんは、自らを支倉一行の侍の子孫だという。貿易を目指した侍は、なぜ異国に残ったのか。400年前の冒険が生んだ、ヨーロッパとの不思議なつながり


南スペインのハポンさん

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コリアの町役場の裏、サン・ファン・バウティスタ(洗礼者ヨハネ)の丘に建つ礼拝堂(エルミータ)。異端者がひっそりと祈りを捧げた。常長一行のなかでこの地に残った人々が祈りを捧げた場所だ

濱田:ヨーロッパに渡った常長一行の人数、所属、行動の記録は断片的で、明確ではありません。しかし、日本に帰らず現地に留まった者がいることは確かです。

太田:私はヨーロッパに渡った日本人は26人で、帰国は二手に分かれ、第一陣では13人、第二陣では常長のほかに5人だったと考えています。正確な数字はさておき、旅の途中で行方をくらました者がいますね。
 たとえば、滝野嘉兵衛は同行したキリシタンで、仙台藩の者ではありませんが、出自は諸説あり謎です。彼は、常長らがヨーロッパを発った5年後にセビリアで裁判請求した記録があり、現地に残ったことがわかります。ほかにも残留したと考えられるものがいます。

濱田:スペイン南部のコリア・デル・リオ(以下、コリア)周辺には、常長一行のうち現地に留まった者の子孫ではないかと考えられる人が、現在も600人以上いて、日本を意味するハポンという姓を名乗っています。

太田:スペイン語の「ハポン」には日本以外の意味はありません。また当時は出身地名を姓にするのはごく一般的でした。つまり、残った者が日本を名乗ったか、あるいは現地の人に「ハポン」と呼ばれ、姓にしたかです。

濱田:近くには大航海時代の貿易の拠点都市だったセビリアがあり、コリアはその出先機関でした。いわば新大陸への玄関口で、使節がヨーロッパで最初にもてなしを受け、セビリアに行く前に衣装を新調した町でもあります。


侍の子孫である根拠

コリア・デル・リオに住むハポン姓の人々は自分たちはサムライの子孫だと信じている
東日本大震災から2年後の3月11日生まれのカルメンちゃんを抱く父のサンフランシスコ・ハポンさん。コリア・デル・リオに住むハポン姓の人々は自分たちはサムライの子孫だと信じている

太田:私がコリアに行って驚いたのは、川と田園の風景が日本とそっくりで、懐かしささえ感じました。河口に近く汽水域なので漁業が盛んだし、水田の作り方、また稲作の方法も日本と同じなんです。
 田んぼは畦道で仕切られ、稲も苗床で育てたものを丁寧に植えます。スペインやイタリアの稲作は、水田にモミをばら撒く方法が主流ですが、この周辺では日本と同じ稲作法です。

濱田:そこに留まった者が稲作に関わったということでしょうか。

太田:ええ、イベリア半島での稲作は、常長らが行くより遥か昔から始まっていますから、もしこの地方の稲作がほかと違うなら記録があるはずですが、古い書物にもありません。つまり、ある時期に日本人がこの地方の稲作を改良し、現在のようになったのではないかと思います。

濱田:ハポンさんは、自分たちが侍の子孫であると信じ誇りにしていますね。またそれを証明しようと調査にも熱心ですね。

17世紀の洗礼台帳
17世紀の洗礼台帳。下から5行目の後半部分にハポンの表記がある。洗礼台帳のほかにもハポン姓の記述があることが分かっている

太田:ハポンさんらが常長一行のうちの子孫であるとする現時点での最大の根拠は、コリアの教会に保存される洗礼台帳です。そこにハポン姓が登場するのは常長らが訪れて以降で、それ以前の台帳には見当たりません。以後、彼らは自分たちの祖先は、常長一行の侍だと主張するようになります。それを調べたのもハポンさんです。

濱田:また面白いのは、ハポンさんの多くは赤ん坊のころに、お尻に蒙古斑が出るそうですね。

太田:私が知るハポンさんにも大半は蒙古斑があったそうです。90年代半ばのコリアの町長は、小児科医でしたが、彼によればスペイン人には見られないと言っていました。遺伝的にも日本人とつながっているのかもしれません。

濱田:常長一行のほとんどは、ヨーロッパを離れる時点でキリスト教徒になっていました。しかし、何人かが現地に残ったとして、社会は受け入れたでしょうか。

太田:真正クリスチャンからすれば異端者ですから教会に出入りできず、エルミータという異端者のための礼拝堂でひっそり祈りを捧げたはずです。
 教会に出入りできるようになったのは、ひ孫の世代からではないかと言われています。実は洗礼台帳の最も古いハポンさんの記録は、1667年のもので、常長らが帰ったちょうど50年後です。すると、ひ孫世代から教会に行けるようになったとする説と合致します。


祖国との架け橋となるために

濱田:常長は貿易実現を目指しましたが、スペイン国王は日本で禁教が強まっていることを理由に認めず、一行に退去命令を出しました。一部の者は帰国させたものの、常長は一縷の望みをかけ、セビリア近くの修道院に留まります。

太田:滞在が可能だったのは、旅の最後まで共に行動したソテロの兄が、コリア周辺の領主だったからです。つまり費用などの庇護を受けられました。

濱田:その後常長は帰国しますが、おそらく現地に留まったものがいます。土地は稲作に適し、魚も豊富で、風景も日本に似て居心地が良かったのでしょうね。
 そして当時の状況と、常長の貿易実現への強い思いを考えると、なぜ彼らがスペインに残ったのかも見えてきますね。

太田:一行のキリシタンのなかには、初めからキリスト教国で生きようと決めていた者もいたでしょう。彼らは、日本でキリシタン弾圧の強まりを知り、帰国を拒んだかもしれません。

濱田:キリシタンには、日本は生きていける国ではなくなっていたのですね。

太田:もうひとつは、常長が、数人に現地に残るよう命じたのではないかということです。貿易交渉には長い時間が必要と考え、自らが帰国した後の布石を打ったのではないでしょうか。

濱田:国王からの返書がないままでは帰れない。退去命令から2年以上も留まり、請願を続けた常長が、信頼できる者に望みを託したとは十分考えられます。主君政宗の夢を未来へつなげようとしたのですね。

太田:一方、託された者にとっても新大陸への玄関口であるコリアに残ることは、つながりを持つためにも必要不可欠だったでしょう。当時のヨーロッパでは、最も日本に近い町だったからです。
 祖国を想いながら、いつか日本とヨーロッパの架け橋になろうと考えていたかもしれません。

濱田:ハポンさんには優秀な人が多く、日本人の勤勉さを受け継いでいるからだと、誇りにしていますね。

太田:ええ、400年前の日本人がルーツだと信じるヨーロッパ人がいて、それが人生の支えとなっていることはとても誇らしく、大きなロマンを感じます。

グアダルキビル川の河畔に建つ支倉常長像
大航海時代には新大陸の富を積んだ船が行き交ったグアダルキビル川の河畔に建つ支倉常長像。コリア・デル・リオ市

特集 伊達政宗の夢 vol.11
   対談 太田尚樹・濱田直嗣  企画制作 河北新報社営業局

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