SEVEN BEACH PROJECT×今できることプロジェクト

七ヶ浜10人インタビュー

あの日までの10年、あの日からの10年、ここからの10年

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地域住民を家族として包み込み
命と安心を守った避難所の立役者。
小玉源一[こだまげんいち]さん
七ヶ浜町吉田浜出身、1953年生まれ。昼はマクロビオティック理念に基づいたカフェ、夜は浦霞バーの「菜菜café*キリカブ」オーナーで、夜の担当。民泊事業も行っています。震災前に、塩竈市尾島町で営んでいた前身のバーから続く熱心なファンに支持され、遠方から通う常連客も少なくありません。七ヶ浜町消防団吉田浜分団長を務めた経験もあり、この地域では、区長とともに信頼の厚い存在。七ヶ浜町観光協会の理事も務めています。

目の前に迫る津波から命からがら避難

 震災当日、小玉さんは自宅でファンヒーターの灯油を入れていた時に大きな揺れを感じました。「小学2年生の時、チリ地震を経験していたので、自宅を建築する際、当時津波が到達した高さより1m高く土盛りし、耐震構造で設計しました。それでも今回は、畳から2m40cmの高さまで浸水してしまい、想定を軽く超えてしまいましたね」と、笑います。揺れがおさまった直後、近所の住人を自動車で避難所に送り、また戻ろうとした坂道の途中、浜の方へ眼をやると、水位が異常なことに気づきました。そしてドーッいう大きな音とともに押し寄せる濁流が。自宅2階のベランダには、助けを求めて手を振る奥様の姿も見えました。階段に折り重なる家具を退かし、奥様の元に駆け付けた小玉さん。ベランダから津波の第3波を見届けた後、ようやく夫婦で避難することができました。

吉田家という家族でまとめた機転と包容力

 吉田浜コミュニティーセンターを避難所として開設する際、吉田浜地区の区長から世話人になって欲しいと依頼されました。実は以前、地区の防災担当として全世帯から家族構成の聞き取りを行っていたため、避難初日の所在確認や役割分担などをスムーズに行うことができたことが、小玉さんの運営力をより確かなものにしました。

 それでも避難所での暮らしは、些細なもめごとが絶えなかったそうです。みんなで協力して布団を確保したり物資の在庫管理をしたりいろいろと手を尽くしたのですが、配給品を独り占めしようとする人もいて険悪な空気に。その状況を憂慮した小玉さんは、ミーティングの場で「ここにいる人たちはみんな名字を捨ててください。一つ屋根の下で朝晩一緒に過ごしている私たちは、もはや家族同然です。ここにいる全員が吉田浜に住む、吉田家なんです!」と訴えかけると、雰囲気が一変。互いに思いやりの心が生まれた様子を目の当たりにした区長は、小玉さんに賛辞を贈ったそうです。

七ヶ浜の歴史と記憶を伝え継ぐために

 2013年には復興公営住宅が整備されると、小玉さんは七ヶ浜町震災復興推進課から依頼され、まちづくり協議会の会長に就任。新たな吉田浜地区のために敏腕を奮っています。そして、15年3月には、「菜菜café*キリカブ」オープン。この店でしか飲めない浦霞のコレクションとこだわりぬいた料理で、関東圏からも熱烈なファンを呼び集めています。そんなバイタリティーあふれる小玉さんに、これから新しくやりたいことは何かを問うと、「大正時代の七ヶ浜半島の地形と震災前の街並みを、ジオラマで再現してみたいんです。かつてこの地が、大和文化と蝦夷文化の境界にあったことを示して、歴史的に重要な立地にあることを知ってもらいたくて。そして、町民の方たちには、震災以前の七ヶ浜の思い出を呼び起こすきっかけにしてくれればと思っています」と、意欲たっぷりに語ってくれました。