寄稿>元石巻市長・青木さんの死を悼む 地域ジャーナリスト鈴木孝也

現職時代の青木元市長

 元石巻市長の青木和夫さんが4日、逝去した。91歳だった。1972年11月、44歳で市長に初当選以来、3期務めた。切れ味の良さが印象に残っている。

 青木さんと最後に会ったのは2017年の秋だった。改めて市長時代の話を拝聴しようと、自宅を訪ねた。体はかなり衰弱していたように見えた。それでも「元新聞記者のあなたと話していると市長に戻ったようだ」と声を振り絞り語ってくれた。

 信条に「首長は常に構想を持つこと」を掲げ、「大風呂敷」とやゆされても、実業家の経験を生かし次々と大事業を遂行した。

 大学誘致に道筋を付けたのは偶然のことだった。知人に紹介された人が専修大の故森口忠造理事長。森口さんは青木さんがかつて勤めた三井船舶の上司と旧知の仲であることが分かった。誘致話がとんとん拍子に進んだのは言うまでもない。

 押しの強さが裏目に出るケースがあった。その顕著な例が「石巻城」復元だ。鎌倉時代、日和山公園に建てられたとされる城を公園に再建し、文化施設を併設しようとした。財政負担の軽減を狙いに、市女子高(現・市桜坂高)を専修大付属高とする案も騒動の引き金になった。

 築城構想は自然環境を守る市民から、市女子高は卒業生らから猛反発に遭い、断念せざるを得なかった。

 青木流は収拾策にも表れた。公園を発掘調査した結果、中世の城跡と判明。史跡に建物は設けないとした。反対運動に屈したのではないという強気の姿勢を崩さなかったのだ。高校問題に対しては今後、専修大誘致に傾注するとし、市民の目を同大に向けさせた。

 大胆な政策を示す一方で、市民の声を重視する細やかな面を見せている。御所入採石場の騒音問題は、業者の既得権絡みの難題だったが、粘り強い交渉が実り、採石場は閉鎖された。騒音の解消を求めた住民との会合も解決するまで積極的に開いた。工業港副港建設では、反対漁民との対話が功を奏し、理解を得た。

 ユーモアもあった。施政方針演説で公共下水道の推進を訴える際「雨雨ふれふれもっとふれ」と、当時流行した八代亜紀の「雨の慕情」の歌詞を引用し、議場を和ませた。原稿をよく練ることでも知られた。

 しかし、言葉遊びが高じ、度々波紋を呼んだ。選挙への立候補に迷う仲間に「おかゆに納豆を掛けたような男」と辛辣(しんらつ)な言葉を浴びせたり、自らを「僕」と称していた政治のライバルに「紳士気取りの唐変木」とからかったりした。本人に直接言ったわけでないが、周囲をはらはらさせた。

 引き際は潔かった。4選出馬が確実視される中、不出馬を表明した。引退は反青木集団による攻勢との見方を否定。「首長の能力の第一は体力」と言って、3期理想論の信念を貫いた。

 最近のある会合で、現職の頃から反目し「AK戦争」と世間をにぎわせた相手の現職市議に「話が分かるじゃないか」と評価。共に亀山紘市長に反対の立場とはいえ、驚かされた。時の流れを感じる場面だった。

 豪胆な昭和の地方政治家がまた逝ってしまった。寂しさを禁じ得ない。

      ◇

 青木元市長のお別れの会は、6月10日午前10時から石巻市千石町の石巻グランドホテルで執り行われる。


2019年05月16日木曜日


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