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<仙台いやすこ歩き>(92)鍋焼きうどん/だしに絡む細めの麺

 カサコソ、ヒューッ。「うっ、さぶい」と背中を丸めて街を歩くいやすこ。そんな2人を「お待ちしていました」と迎えてくれたのは、仙台市青葉区一番町「さん竹」の大田仁恵(きみえ)さん(60)だ。
 仙台っ子なら知らない人はいない、そば屋の老舗のおかみは、今日のお目当てが鍋焼きうどんだと告げると、粋な笑顔を輝かし、「仙台のさん竹では、最初から鍋焼きうどんがあったんですよ」と話す。
 仙台のさん竹? 歴史を伺って驚いた。さん竹は1907(明治40)年、なんと、中国は上海に始まるのだそう。初代三宅竹次郎が上海で日本料理店を創業。当時の写真を見せてもらうと、1階がそば屋で2階が割烹(かっぽう)という店ののれんに「さん竹」の文字が見える。2代目を継いだのが妹の大田嘉女(かめ)で、その嘉女さんは終戦後、親戚・兄弟がいた縁で仙台へやってくる。そして47(昭和22)年、戦後にできた仙台の横町の一つ、東一連鎖街(とういちれんさがい)でさん竹を復活させたのだ。
 「もともと大阪生まれの嘉女と息子の健一(3代目)は、どうしたら仙台の人においしく食べていただけるかと、だし汁作りに苦心したそうですよ」
 調味料を求めて東京、大阪へと出掛け、研究したかいあってさん竹のそばは評判に。卵や野菜の入った鍋焼きうどんも大層喜ばれたという。今の場所に移転したのは53年で、当時のお品書きにも「鍋焼うどん 160円」とある。
 創業111年目で、仙台での歴史も71年。長い歴史とともにある鍋焼きうどんは、一年中これだけを食べに来るファンもいるというから、すごい。
 作るところを見せていただいた。店の奥、決して広くない厨房(ちゅうぼう)では、釜前では麺をゆでる職人、中の台では食材を刻み、隣では天ぷらを揚げ、そしてガス台で鍋焼きうどんを仕上げる職人と、それぞれが持ち場で腕を振るう。料理人密度のなんと高いことか!
 それにも増して、なんて穏やかな雰囲気なんだろうと思っているうちに、鍋焼きうどん作りは進行していく。「わぁ〜、何回にも分けて、だし汁を入れていくんだ」と画伯も感激しきりだ。シイタケ、トリ肉、かまぼこ、えび天、卵と具材を載せてはだし汁を掛け足し、最後に三つ葉を散らしたうどんの鍋は、ぐつぐつ、ぶくぶく。
 それを熱々でいただく2人はというと、うーん、うーんとうなるばかり。やっと箸を休ませ、「あ〜おいし〜」。つるつるしこしこの麺にだし汁の優しさ。具の味わいに心もほっこり。麺は細めで、これが、だし汁が絡むのにいい太さなのだそう。
 「麺は3階の製麺室で作っているんですよ」。だし汁作りは1階、保存庫は4階。裏階段で全てつながっている。「鍋焼きうどんに入る伊達鶏や、かきそばで使う宮城のカキも、仕入れた品は全て使い切る責任があります。だからお客さまに喜んで食べていただけるように頑張るのが私たちです」とにっこり。年末ともなれば年越しそばで店は戦場になるそうだが、きっとあの穏やかな厨房の空気は変わらないに違いない。
 鍋焼きうどんで体は芯からぽっかぽか。心まで元気になって、丸まっていた背中もぴーん、だ。


◎遣唐使が伝えた菓子起源

 うどんの材料である小麦は、弥生時代の登呂遺跡からも発見されているが、それが粉になり細く長く加工されたのは奈良時代で、758年の「食料下充帳」に牟義縄(むぎなわ)の名で記されている。これの元は遣唐使が伝えた中国の菓子で、ここからうどん、そうめん、きしめんと進化し、さらに、うどんが庶民にも食べられるようになったのは江戸前期とされる。
 うどんは連綿と作られ、うどんから分化したそばは少数派であり、ほとんどの日本人はうどんに慣れ親しんでいた。しかし、江戸末期から大正期にかけて、東京ではうどんを食べる習慣が薄れ、現在のように大阪はうどん、東京はそばといわれるようになった。
 関西のうどんは太く、しっとりしていて、一方、関東のうどんは締まった平べったいのが特徴。ちなみに、うどんはそばに比べて融通が利き、鍋焼きうどん、焼きうどんとしても調理される。(参考資料/「うどんの秘密」藤村和夫著/PHP新書)
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 土地には、その土地ならではの食があります。自他共に認める「いやすこ(仙台弁で食いしん坊のこと)」コンビ、仙台市在住のコピーライター(愛称「みい」)とイラストレーター(愛称「画伯」)が、仙台の食を求めて東へ、西へ。歩いて出合ったおいしい話をお届けします。


2018年12月10日月曜日


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