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<仙台いやすこ歩き>(111)大人の給食/学校気分 楽しく味わう

 「12月24日、何の日か知ってる? 学校給食記念日なのよ」と電話で話したら、程なくメールが届いた。「どうも、大人の給食を出すお店があるらしいの」。画伯のいやすこアンテナ、空気が澄んだ冬はますます感度良好らしい。
 2人が降り立ったのはJR仙石線の陸前原ノ町駅(仙台市宮城野区)。そこから徒歩4分の、宮城野納豆の工場敷地内にある「となりのえんがわ」へ。不思議に思いつつ工場の門に立つと、小さなサインが奥へと案内してくれる。すると、木造りのかわいらしい建物が現れ、誘い込まれるように中へ入ると懐かしさに包まれた。

 「ここは築100年以上の建物なんですよ」と迎えてくれたのは「えむ・きっちん」店長の加藤美由紀さん(43)。元々この建物は宮城野納豆の倉庫だったもので、それを地域のために生かしたいと改装し、「となりのえんがわ」という多目的スペースが誕生。ワークショップや子ども食堂などに使われているのだそう。そこを加藤さんも週1回借りて「大人の給食ランチ」を始めたというわけ。今年5月に始まった、火曜日だけのとっておきのランチである。
 「どうぞ」と案内されて座ったのは、木のテーブルと小さな椅子。すりガラスの格子窓が少し開いていて、大きな木々と青い空がのぞく。木造校舎の窓から眺めた風景だ。そこにアルマイトのトレーと食器に盛られた給食が運ばれるのだからたまらない。
 銀色の食器には「赤カブと聖護院カブの豆乳ポタージュ」「白身魚のポテトグラタン」「おからと竹鶏卵のさっぱりサラダ」「雪菜とパプリカの炒め物」「ゴボウとヒジキのファイバーサラダ」、デザートの庄内柿、それともち麦入りのご飯。彩り豊かで気持ちまで明るくなる。それに一つ一つの味わいが優しく、聞かなくとも伝わる安心感。優しい日だまりの中でいただけば、やっぱり楽しい給食時間だ。
 「特別に学校で料理を学んだわけではないんですよ」という加藤さんは、小学校3年の時から子ども心に食事は大切と感じていて、家のご飯やみそ汁を作っていたという筋金入り。料理教室や料理の講師などを務める一方で、この建物でカフェをやりたいなと思ったそう。「ご縁があって週1で借りられるようになり、ここでしか食べられないものをと考えたら、ちょうど学校給食が食べたいと思っていたので」とほほえむ。
 食材は道の駅やスーパーで旬の物を買い、それからメニューを決める。「魚もいろんな食べ方がありますが、今日は寒い予報だったのでグラタンにしました」。キーワードは「ま(め)・ご(ま)・わ(かめ)・や(さい)・さ(かな)・し(いたけ)・い(も)・か(じつ)・な(っつ)」だそう。揚げ物は出したくないとも話す。
 「私たちは給食当番のつもりで、制服と帽子もそれに近いものを選んだんですよ」と加藤さん、「めちゃめちゃ楽しいです」とスタッフ。「地域の給食当番として、覚悟して3人で頑張っていきたいです」という頼もしい声を聞いて外に出れば、「今度は生徒をもっと連れてこよう」と足取りも軽やかだ。

◎発祥の地は鶴岡の小学校

 日本の学校給食の発祥の地は鶴岡市の私立忠愛小学校で、1889(明治22)年、お弁当を持って来られない子どもたちのために托鉢(たくはつ)でお金を恵んでもらい、食事を配ったのが始まりといわれる。
 1932(昭和7)年、経済不況で欠食児童が問題になる中、学校給食臨時施設法が公布され、仙台でも栄養不良児童らへのみそ汁給食が開始された。第2次世界大戦さなかの44年、決戦非常時措置として米に魚粉や野菜を混ぜた雑炊給食が始まり、仙台空襲の日まで続いた。
 戦後の46年に学校給食が再開し、ここから一部児童対象から全校児童対象となる。仙台では全校で実施され、元軍用物資の放出によるサバやニシンの缶詰給食、米国から無償提供された脱脂粉乳が配給された。
 54年には学校給食法が定められ、内容・栄養価ともに向上。パンと脱脂粉乳給食は、70年から牛乳給食へ、81年から米飯給食へ、さらに郷土色を取り入れる給食などへと変遷してきている。

 土地には、その土地ならではの食があります。自他共に認める「いやすこ(仙台弁で食いしん坊のこと)」コンビ、仙台市在住のコピーライター(愛称「みい」)とイラストレーター(愛称「画伯」)が、仙台の食を求めて東へ、西へ。歩いて出合ったおいしい話をお届けします。


2019年12月23日月曜日


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