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<仙台いやすこ歩き>(120)仙台饅頭/地元名物誕生から65年

 ケヤキの木陰に愛車を止めた画伯。「ウチからここまでほぼ一直線で、5分くらいだったのよ」とにこにこ。愛車とは自転車で、ケヤキは青葉通の並木である。
 目の前には「創業明治十四年」「饅頭作って百三十九年」「かすてら式 仙臺饅頭(せん だい まん じゅう)」の文字。気になっていてようやく来ることができた青葉区大町の「光明堂」では、代表取締役社長の平公太郎さん(69)が待っていてくれた。
 平さんは4代目で、初代の名前が平光明だったところから「光明堂」の店名が付いた。「仙台藩の足軽侍で、廃藩置県で仙台藩の禄(ろく)を離れる際、手に職をつけるために駄菓子屋で丁稚(でっち)奉公したそうですよ」と平さん。光明さんが1881(明治14)年に野菜を売る傍ら、菓子を並べて売ったのが始まりで、当初は旧奥州街道沿い、今の国分町にあったお店は、その後、仙台駅前の東五番丁(現愛宕上杉通り)に移り、さらに現在地となった。ここで3カ所目だ。

 カステラ式仙台饅頭が生まれたのは、1955(昭和30)年のことで、駅前に店があったころ。当時の鉄道弘済会から「仙台の名物を作ってくれ」と平さんのお父さんが依頼されたことに始まる。その時に試作用に使ったという小さなオーブンがショーウインドーに飾られているが、1回に5、6個が焼けるかわいいオーブン。一体どれだけの試作品がこれで焼かれたのだろう。
 出来上がったまんじゅうは高い評価を得、当時の市長はじめ20以上の推薦状もあって「仙台」を付けての登録商標が可能になった。「今では仙台を付けた登録はできないそうですよ」。現在、商品に仙台が付くのは「仙台長なす漬(づけ)」、仙台饅頭の二つだけだ。
 誕生からもう65年。店が仙台駅前にあったころは、修学旅行の生徒たちに仙台土産として人気で、区画整理で今の青葉通に移ってからは、近くにあったホテルの宿泊客がお客さんとして多かった。そして時代の波は、また新たなお客さんを連れてきている。
 というのも、店内のテーブルでさっきまでお茶をいただきながら会話を楽しんでいる女性。昔からの常連さんかと思っていたら、近所の老人施設に住む人とのこと。「知らない土地にきたばかりだそうで、散歩の途中によく寄られます」。平さんの奥さん・由美子さん(65)の優しい声が返ってくる。
 私たちの目の前にお茶とともに山型に積まれたまんじゅう。二つに割れば香ばしいカステラ皮に包まれた、きれいな卵の黄身色のきみあん。口の中でほろほろ溶けたと思うと、中はしっとり。「うーん、この真ん中のクルミがアクセント」と画伯。そのクルミがよく合うのだ。
 「作るところを見ますか」と案内された奥で、平さんは丸めたきみあんを、カステラ皮にくるくると包み込んでいく。「人さし指だけでやるんですよ」といいながら、次々とまんじゅう型にしていく平さんの指の、ふくよかで優しいこと。これじゃあまんじゅうだっておいしくならずにはいられない。すると平さん、「家でご飯を食べる時も、いつの間にかお茶わんを回しているんです」
 ご夫婦に見送られたいやすこ。ケヤキの木の下、「灯台下暗しだね」「身近にある、おいしいを大切にしたいね」と、思いを新たにする2人である。

◎オーブン輸入さらに進化

 日本に初めてあんこが入ったまんじゅうを伝えたといわれるのは、南北朝時代の1349年に中国から渡来した林浄因(りんじょういん)。「薯蕷饅頭(じょうよまん じゅう)」を作り、瞬く間に人気となった。後村上天皇に献上するといたく気に入り、林浄因は官女を賜った。その林浄因を祭った林神社が奈良市漢国町にあり、毎年まんじゅう祭りが盛大に行われる。一方で、浄因の故郷である杭州にも、日本のまんじゅうの始祖という碑が建てられている。
 和菓子は江戸時代に製法や技法が著しく進歩したが、明治時代に入り西洋の文物が激しい勢いで流入すると、和菓子の一層の発展に貢献。最も大きな変化はオーブンなどの機器の輸入によるもので、小麦粉や卵を原料として焼き菓子が研究開発される。こうして蒸しまんじゅうと平焼きまんじゅうだったところに、オーブンで焼いたカステラまんじゅうなど、焼きまんじゅうが誕生し、加わる。カステラまんじゅうの名称は、カステラと同じ材料(小麦粉、砂糖)を使っていることに由来する。
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 土地には、その土地ならではの食があります。自他共に認める「いやすこ(仙台弁で食いしん坊のこと)」コンビ、仙台市在住のコピーライター(愛称「みい」)とイラストレーター(愛称「画伯」)が、仙台の食を求めて東へ、西へ。歩いて出合ったおいしい話をお届けします。


2020年06月22日月曜日


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