<アーカイブ大震災>町孤立 数字独り歩き

大震災から一夜明け、避難所へ向けて移動する町民=2011年3月12日午前10時40分ごろ、宮城県南三陸町志津川

 「南三陸1万人不通」。人口約1万7600人の宮城県南三陸町で、約1万人と連絡が取れない。宮城県の発表として、2011年3月13日の朝刊はそんな見出しで報じた。被害の全容が把握できず、一時は町民の半数以上が犠牲となる最悪の事態も心配された。町職員の被災、交通・通信の途絶、避難所に押し寄せる住民…。混乱を極めた現地には、情報を発信するすべもなかった。

◎その時 何が(10)1万人安否不明(宮城・南三陸町)

 南三陸町を大津波が襲ったのは、3月11日午後3時半ごろ。大津波は高さ5メートルの防潮堤を越え、町の中心部に迫った。
 町職員の佐藤勉さん(47)は、同町志津川の町海浜センターで大きな揺れに見舞われた。住民を高台の町道へ誘導し、避難所となる町総合体育館へ向かった。
 体育館には既に約100人の町民が避難していた。夕方には避難者は1000人近くに膨れあがった。無線などの連絡手段がなく、6人ほどの町職員で食料の確保などに追われた。
 「残っている職員で町民をいかに守るかで手いっぱいだった」と佐藤さん。志津川小から山伝いに避難してきた町民から、「町役場が流失した」と知らされたのは11日深夜。町役場に隣接する防災対策庁舎も津波で被災し、屋上で数人が生存しているとも伝えられた。
 役場機能は、ほぼ完全に失われた。

 「1万人安否不明」の数字は12日、宮城県庁の災害対策本部でのやりとりで出た。町から報告された7500人の避難者数を受け、報道各社から質問が相次いだ。
 記者「7500人が避難したとなると、残り1万人は?」
 県「町も正確な数字を把握していない。単純に引き算すると1万人が安否不明になるが、断定的な数字を出せる状況でない」
 1万人安否不明という数字は、「犠牲者」という意味を帯びて独り歩きを始めた。14日には南三陸町で約1000人の遺体が見つかったと報じられた。町は一貫して否定し、情報は錯綜(さくそう)していた。
 防災対策庁舎で津波に襲われた佐藤仁町長(59)。壊滅した町を庁舎屋上から見て祈った。「みんな、逃げていてくれ」
 町は1960年のチリ地震津波で、41人の犠牲者を出している。それを契機に、町は毎年避難訓練を行ってきた。
 佐藤町長は「各地で避難所が孤立し大混乱だったが、町民の防災意識は高かった。1万人の安否不明者が全て犠牲となったとは考えていなかった」と振り返る。

 安否確認は難航を極めた。
 町は震災後、町総合体育館に災害対策本部を設置。しかし、通信手段がなく、対策本部と各避難所との連絡が取れない。道路もがれきに埋もれている。町職員、車、ガソリン。全てが不足していた。
 安否確認のよりどころは、避難所にある手書きの避難者名簿だけ。家族や親類、友人の安否情報を求める住民は徒歩で何時間もかけ、数十カ所の避難所を回っていた。
 町が10年2月に発生したチリ大地震津波で行ったアンケート。最も多く避難したのは山間部の親類宅(40.1%)で、指定避難所は24.2%だった。避難者名簿に載らない1万人の安否不明者が出た背景だった。
 町による安否不明者の確認作業が始まったのは3月28日。避難所の町民だけでなく、自宅や親類宅にいる町民ら全町民を対象に避難者台帳の提出を呼び掛けた。町外へ脱出するなどして連絡が難しい場合は、電話や行政区長を通じて確認を取った。
 5月13日現在、町民1万6382人の生存を確認。死亡、行方不明は862人、安否不明者は426人まで減った。(渡辺龍、吉田尚史)=2011年5月24日河北新報
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 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 5年の節目に際し、一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


2016年01月29日金曜日


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