<東北の本棚>大義なき戦争の犠牲に

会津藩は朝敵にあらず 星亮一 著

 開国した幕府と攘夷(じょうい)を叫ぶ朝廷のはざまで、幕府の代役として都の治安維持に当たる一方、倒幕の志士が潜行する朝廷の警護を任されたのが京都守護職であった。矛盾する課題を背負い、最後はつぶされていった会津藩主・松平容保の人となり、心模様を軸に物語は展開する。
 容保は美濃国(岐阜県)高須城主の六男として生まれた。会津藩主に世継ぎができず、養子に入り18歳で9代藩主となる。体が弱く、よく風邪をひいた。生前の前藩主から徹底して教育されたのが「もし徳川家に背く心を抱けば、わが子孫にあらず」と説いた家訓だった。
 幕府は開国を決めたが、容保に信頼厚い孝明天皇は攘夷論者だった。陰謀渦巻く京の都、天皇の周辺には攘夷を唱える長州(山口県)の志士が群がる。禁門の変で長州勢を追放したが、孝明天皇が崩御し、朝廷内の後ろ盾を失った。
 将軍・慶喜は雄弁家で頭脳明晰(めいせき)といわれる一方、意志薄弱との人物評もある。鳥羽伏見の戦いで戊辰戦争の戦端が開かれると「敵前逃亡」、すぐさま大坂城へ向かった。容保は、幕府の命を受け京都守護職となった。「それがなぜ、逃げるようにして大坂に落ち延びなければならぬのか。涙が頬を伝わった」と物語は描く。戦場で戦っている藩兵を置き去りにして藩主一人、慶喜の命令に従って大坂からさらに船で江戸へ向かった。幕府内で後ろ盾となるはずの慶喜の言動に翻弄(ほんろう)され、裏切られた結果が、会津戦争の結末であった。
 容保は戊辰戦争後、日光の宮司などを務めた。若松の町を訪ねたのは戦後6年目、人々は皆、土下座して泣いた。容保も落涙し、つぶやく。「一体、自分の人生は何だったのか」。将軍である慶喜が、新政府軍と戦う意志のないことを示した後に起きたのが、会津戦争だった。「矛盾に満ちた、大義なき戦争」の犠牲になった、その象徴が容保の生涯そのものであった。
 イースト・プレス03(5213)4700=1620円。


2018年11月25日日曜日


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