<まちかどエッセー・高橋清博>小笠原父島のダークラム酒

[たかはし・きよひろさん]イベントプロデューサー。オフィスQ代表。祭り、ステージ、展覧会など幅広い分野で制作活動を展開。主なものに、仙台・青葉まつりすずめ踊り、定禅寺ストリートジャズフェスティバル、とっておきの音楽祭、丸森斎理幻夜、縄文人記憶の宴、エフエム仙台「飛び出せ高校生諸君!」など。1953年、宮城県柴田町生まれ。

 私には、忘れられない運命の出会いのお酒があります。
 私が20歳の時、母親の生まれ故郷、小笠原諸島父島にある先祖のお墓を本土に移すため、姉と伯父と3人で48時間かけての船旅で小笠原へ向かったのです。
 小笠原諸島は、東京から南に約1000キロメートルの太平洋上に浮かぶ大小30余りの島々からなり、もともとは無人島で、1593年に小笠原貞頼が発見したと伝えられています。最初に定住したのは欧米人5人とハワイ人15人で、捕鯨船に水や食料を提供するため、住み着きました。
 亜熱帯の島でマンゴーやパパイアなどの果実、サトウキビ、カツオ、マグロ漁の他、捕鯨やサンゴ漁などが行われ、欧米系島民と日本人島民が仲良く暮らす南の楽園でした。
 しかし、太平洋戦争を境に平和で美しい島の様子は大きく変わります。本土防衛の最前線基地とされ1944年には、6886人の島民が本土へ強制疎開させられたのです。
 強制疎開は、母が20歳の時で、祖父、祖母と妹4人と手荷物一つを持って、初めて本土の土を踏み、当時、東洋一の軍事火薬工場があった宮城県柴田町船岡に移り住むこととなります。戦後、小笠原は米国の領土となり、一部の欧米系島民しか帰島を許されず、それから23年後の68年に日本へ返還されたのです。
 私が初めて訪れた母の故郷、父島のお墓は爆撃で墓石は倒れ、その上を熱帯植物が覆うジャングルとなっていましたが、伯父がお墓を探し当て、3人で掘り起こしました。その時お墓からは、曽祖母のお骨と一緒に、べっ甲の櫛(くし)と赤サンゴのかんざしと青色の四合瓶が出てきました。
 針金で封されたその四合瓶は、天使の分け前で3センチほど少なくなっていて、針金を外し栓を開けた瞬間、えも言われぬ良い香りがして、グラスに注ぐと濃い褐色の液体となっていました。
 それを飲んでみると芳醇(ほうじゅん)な風味が口の中に広がり、本当においしいお酒でした。それは、30年以上お墓の中に眠っていたサトウキビ酒、ダークラムだったのです。それ以来ダークラムが私のフェイバリット酒となりました。
 小笠原は今年、日本返還50周年の節目の年です。
(イベントプロデューサー)


2018年08月13日月曜日


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