<まちかどエッセー・工藤敏夫>私の一生で一番長かった日

 「起きなさい」。母の声で再び目覚める。「早く」と母は急(せ)かす。父は自警団員で、警戒警報発令時から出動している。さっき、警報が解除されたばかりなのにと、不承不承起き上がる。夕立のような焼夷(しょうい)弾の音。
 周囲が突然明るくなる。隣の会社2階の窓から火が噴き出ている。母は、私と妹(小5)弟(小3)を連れ、向かいの常盤木学園裏(現西公園こけし塔あたりか)に避難。そこは既に人が詰め掛け、危険防止の柵内まで満員に近い状況に、大学病院方面に向かう。
 人の流れに押されるうち妹、弟を見失うが、戻ろうにも止まれない。気が付けば、小高い山の中に母と2人、腰を下ろしていた。背負っていた「緊急用の食料缶」が一つあるだけ。行く先々に火の手を見るたび、暗い方へとたどった結果が、現在の東北福祉大近くの丘陵にたどり着いたのであろう。
 東南の方向は異様に明るい。先ほどまでの喧噪(けんそう)が嘘(うそ)のような静寂の中、見上げた空のきれいなこと。そこを悠々と飛んでいくB29の編隊。迎え撃つ高射砲の弾は飛行機に届かず、下の方で白煙を上げる。まるで花火見物の趣で、非常時にもかかわらず、安らぎを感じたことが不思議だった。
 空が白み始め、山を下り家に向かう。何の変化もない町の様子が、今の市民会館辺りに来るや一変する。一切の建物・街が消えていた。一面焼け野原で、遠くまでが見渡せる。
 自警団の詰め所跡で、父と無口の弟妹を見つけ、朝日の中、お互いの無事を確認し、午後3時すぎ、職務で残る父と別れ、20キロほど離れた親戚を頼り、6時間近くの母子の旅が始まるのだが…。その間の記憶が、驚くほど少ない。
 家の焼け跡で見つけた辞典に手を触れた途端、崩れ去ったこと、犠牲となった叔母を中ノ瀬河原で火葬したこと、避難先への途中見た、西日に輝く東仙台の無線塔、今市の民家の縁側で休ませていただいたご親切などが断片的に残るだけで、なぜか空腹や喉の渇きや疲れなどを含む一切の記憶がないのだ。
 私の一生で一番長かった日、あの7月10日が、また巡って来る。
(日本フォークダンス連盟宮城県支部前支部長)


2019年06月24日月曜日


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