<まちかどエッセー・鈴木誠一>竹馬の友は刎頚の友

[すずき・せいいちさん]鈴屋金物(株)代表取締役。1951年仙台市生まれ。早稲田大商学部卒・同大大学院商学研究科修士課程修了。早稲田大商議員、仙台稲門会副会長。仙台二高同窓会理事・創立120周年記念データベース委員長。ジャズバンド「ビバップス」主宰。

 <木町通小学校 明治六年はじまって…>。校歌を歌うたび、まきを背負った二宮金次郎像を思い出す。仙台市木町通小1年3組、堀籠綾子先生のクラスで、後に60年以上生涯を共に歩む盟友に出会った。けんかもした。しかし、その後は不思議なくらい彼と仲良しになった。彼は正義感が強く、弱い者いじめをするやつがいれば、誰彼構わず立ち向かった。子供心に彼の正しい生き方に引かれた。
 彼は、幼い頃から「義」の人だった。彼の家は小学校から近く、私は毎日放課後、赤胴鈴之助全巻を読みに、遊びに行った。私の家にも彼は、百人一首をしに遊びに来た。15年ほど前に小学校が改築された折には彼と電話をかけまくり、同窓会を開催した。久しぶりに幼なじみたちと再会して楽しかった。
 仙台二中に進学し、立町や通町など他の小学校からも個性豊かな学友が集った。成人して中学時代の仲間の飲み会を毎月、開くようになった。
 社会人になり、私がまだ国分町に住んでいた頃、毎朝、彼と散歩するようになった。広瀬川沿いを2人で歩いた。同級生の豆腐屋でおぼろ豆腐を買い、やはり同級生の喫茶店でコーヒーを飲んだ。散歩した後に仕事に就くのが日課だった。
 バブルがはじけて、私は建設不況にあえいでいた。散歩しながら、同じ経営者の彼に、相談に乗ってもらった。彼は熟考して一言。
 「国分町の土地を売るしかないだろう」
 私にはそれまで、先祖から引き継いだ国分町を売却する選択肢は考えてもみなかった。彼の卓見で、勇気ある撤退を決断できた。
 彼とは仙台二高にも一緒に進学。気が付くといつも私のそばにいて支えてくれた。60年間一緒に歩んできたが、同じクラスになったのは小学1年生だけというのが不思議でならない。
 満36歳の時に、二高同窓会の幹事を仰せつかった。彼と連絡を取り合い、同期生を集めた。ホテルで、恩師たちを迎え模擬授業を演出した。授業の再現は愉快だった。この時、高校22回生による「ゲタの会」が誕生した。毎月22日に市内のホテルを会場に今でも継続して開催している。刎頚(ふんけい)の友、山田修一郎君を私は尊敬してやまない。
(金属工事施工会社経営)


2019年09月09日月曜日


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