<まちかどエッセー・渋谷敦子>樋口一葉が歩いた道

渋谷敦子[しぶや・あつこ]さん 1956年にかほ市生まれ。山形大人文学部卒業。名取市在住。2008年まで市民による舞台芸術裏方集団「未来工房なとり」を主宰。05年より「みやぎ聞き書き村草子」、15年より「みちのく櫂(かい)草子」で聞き書き活動

 東京・浅草は好きな町の一つで、歩くたびに新たな発見があり興味が尽きない。昨年秋に立ち寄る機会があり、帰りの新幹線までの時間、国際通りを日本堤まで歩くことにした。
 途中、千束通り東側に郷里の町の名が残っていて、かつて驚いたことがある。秋田の本荘藩主の下屋敷がこの辺りにあって、領地の景勝地の名を付けたものだ。
 言問通りとの交差点を過ぎ二股に分かれ、花園通りを進むと込み入った感じが増してくる。江戸の町は幕末には120万人にもなった、当時世界一の百万都市。山手線の内側ほどの広さの1.5割の土地に江戸の人口の半数を占める町人が住んだというから、この狭い地割もうなずける。
 ほぼ真四角の吉原をぐるりと囲むお歯黒どぶも、埋め立てられ、ただの道路になって、往時の面影は全くない。その花園通りを土手通りに突き当たり、左に曲がれば吉原大門。江戸時代は屋根が付いた冠木門だったが、今あるのは証しとしての門柱が2本。向こう側はソープランド街だ。
 吉原のメインストリート、仲之町通りを少しのぞいて吉原公園を茶屋町通りに抜けると、一葉記念館がある。月曜日のことで休館だったが、すぐ先に旧居跡があるので、一葉が日々歩いたであろうこの道を歩いてみる。
 生涯で15回も引っ越しをし、最後から2番目に選んだのがここ、当時の下谷竜泉寺町だ。暮らしに困り、駄菓子も商う雑貨屋を開いたのだった。が、それもうまくいかず10カ月で店を閉じ、最後の転居となった本郷で24歳の生涯を終えた。
 だが遊郭のにぎわいにすがって生きる人々と袖すり合わせた10カ月が、その後、名作を次々と生んだ「奇跡の14カ月」を育んだとされる。「三階の騒ぎも手にとる如(ごと)く」聞こえる郭(くるわ)への通い道に居て、人の欲と悲しみを見たに違いない。それと同時に駄菓子を買いにくる子どもたちに屈託のなさを見、『たけくらべ』に結実させた。
 この町で一葉は、はかないながら煌(きら)めきは見たはずだ、と思いにふけりつつ、もう一つの目的、日本堤の珈琲(コーヒー)店に向かった。
(みやぎ聞き書き村会員)


2020年05月11日月曜日


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