<まちかどエッセー・菅井理恵>「終着駅」の始まり

菅井理恵[すがい・りえ]さん フリーライター。1979年喜多方市生まれ。テレビ局の記者を経て、写真家・宍戸清孝氏に師事。写真集・写真展の構成などに携わるほか、情報誌や経済誌などで人物ノンフィクションやエッセーなどを執筆。情報誌「りらく」では「東北における戦争」をテーマに「蒼空の月」を連載している。仙台市青葉区在住。

 私の故郷は「終着駅」の向こうにある。作家の宮脇俊三さんが旅情を誘う終着駅として挙げた国鉄・日中線の熱塩駅。福島県会津の喜多方−熱塩間を往復していたが、5歳の時、廃線となった。
 その2年後、記念館となった駅舎の脇を通って小学校に通い始めた。全校児童は120人余り。友だちと別れ、1人で歩く帰り道は退屈で、本を読みながら歩く芸当を身に付けた。
 ある日、いつものように本を読んでいると、肩に子猿が飛び乗った。それは珍しい出来事だったけれど、私は騒ぐこともなく、上手に肩車する子猿を乗せて再び本を読み始めた。
 日常は自然の中にあった。家の裏には川が流れ、男の子が「ヤス」を構える傍らでジャバジャバと魚を追い込む端役を担う。澄んだ川の中、うろこに反射する光がきれいだった。
 10歳の時、その川の上流にダムができた。大人たちは「洪水がなくなるし、田んぼの水も安心だ」と喜んだ。いつの間にか川で遊ぶことも減り、高校に入る年、街の近くに引っ越した。
 十数年前、仙台で暮らし始めると、帰省のたびに「故郷」を見掛けるようになった。山形と福島を結ぶ国道121号線、そこはかつて日中線の延伸計画が立てられたルートだった。
 山をくりぬいた国道から「終着駅」の向こう側を見下ろす。家の配置は、30年たった今もほとんど変わらない。それでも私をはじめ、多くの若者が故郷を離れた。
 小学校の全校児童は40人ほど。田んぼを耕す人は高齢化し、耕作放棄地にしないためにどんなに安く売ろうとしても、信頼できる買い手はつかない。
 一度だけ、故郷の川を見に行ったことがある。小さな橋の上から、かつて遊んだ川をのぞく。そこには、水量が減って表面が緑色に染まった石があった。それは、遠くから見ただけでは分からない「時」の流れだった。


2020年11月02日月曜日


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