<奥羽の義 戊辰150年>(16)薩長と異なる未来を展望

千葉県富津市から東京湾を望む。幕末期の荒波の向こうにある国の形を見据えながら、玉虫左太夫は品川から米国へ向けて船出した
玉虫が渡米した際の詳細な体験記「航米日録」(仙台市博物館所蔵)

◎第2部 悩める大藩仙台/列藩同盟の先に

 1860(安政7)年旧暦1月22日。仙台藩士玉虫左太夫は日米修好通商条約批准の幕府使節の一員として米艦ポーハタン号に乗り、品川沖から荒波を越えて渡米した。世界を一周して帰国した玉虫は8年後、奥羽越列藩同盟の結成に立ち会う。

 米国で民主主義や身分階級のない社会に触れ、封建社会の日本との違いを感じた玉虫は、体験を「航米日録」全8巻にまとめた。英領植民地の香港では中国人群衆が英兵にこん棒で打たれる場面に遭遇し、心を痛めている。
 玉虫が作成に関わった列藩同盟の盟約書8カ条は画期的だ。
 一、大義を天下に述べるを目的とし、小節細行に拘泥しない
 一、重要事項は列藩で集議し、公平の旨に帰すべし
 一、みだりに農民を労役するな
 一、罪なき者を殺すな。金穀を略奪するな。不義の者は厳罰に処す
 公正公論、弱者への配慮を理念に掲げ、戦争中でも略奪行為を戒める。先進的な内容が盛り込まれた。
 仙台市泉区の郷土史家木村紀夫さん(78)は「列藩同盟は薩長両藩とは違う未来を展望し、新政府をほしいままにする両藩の専横に異を唱えた」と語る。
 仙台藩首席奉行の但木土佐はこう呼び掛けた。「この上は東方より真の勤王の旗を掲げ、偽官軍を打ち払い、真の王政復古を成し遂げよう」。玉虫は同盟の正当性を国内外に訴える行動計画書も策定した。

 一説には、上野の戦いを落ち延びた親王、輪王寺宮を列藩同盟が盟主に迎えたことから、宮を東武皇帝の称号で擁立し、大政元年と改元、征夷大将軍に仙台藩主の伊達慶邦が就く構想もあったと言われる。
 奥羽政権や東日本政権と称されるこうした独自政権や朝廷の構想に、どこまで現実味があったかは諸説あり、研究者の間で議論が続いている。
 列藩同盟の目指した変革は、敗北により幻と消えた。歴史に「もしも」はない。とはいえ、実現していたら150年後の日本はどう変わっていたのだろう。
(文・酒井原雄平/写真・鹿野 智裕)

「玉虫左太夫]1823年、鷹匠(たかじょう)頭を務める玉虫家の五男として誕生。仙台藩校養賢堂で学ぶ。24歳で脱藩して江戸へ出奔。大学頭林復斎に師事し昌平坂学問所塾頭に推挙される。仙台藩江戸学問所で富田鉄之助(日銀総裁)や高橋是清(首相)を教育。箱館奉行の蝦夷地調査に随行し見聞を「入北記」全9巻に著す。渡米帰国後、仙台藩に復帰し養賢堂指南統取。奥羽越列藩同盟では軍務局副統取として盟約書や作戦計画書策定に携わる。敗戦後に捕縛され69年獄前で切腹。初めてビールを飲んだ日本人としても知られる。


 連載でこれまで紹介した仙台市博物館所蔵の資料は、10月26日に始まる同館特別展で展示予定。


2018年08月19日日曜日


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