<奥羽の義 戊辰150年>(21)神出鬼没アウトロー集団

鋭いくちばしと爪をあらわにして獲物を探し回るカラス。まがまがしさとふてぶてしさを併せ持つカラスのように、細谷十太夫の「からす組」は新政府軍に襲い掛かった=宮城県気仙沼市魚市場前
細谷十太夫は戊辰戦争後、北海道に渡るなどして活躍したが、最後は故郷の仙台に戻って人生を全うした。旗巻峠の碑には、仙台藩の最後のヒーローを忘れない地元の人たちが今も花を供える=宮城県丸森町大内の旗巻古戦場公園

◎第3部 東北に戦火/からす組奮戦

 新政府軍との戦いに連敗する仙台藩で唯一、気を吐いた異彩の集団がいた。細谷十太夫(じゅうだゆう)率いる通称「からす組」。三十数戦無敗とされ、勇猛ぶりが新政府軍に恐れられた。

 正式名称は「衝撃隊」。夜襲によるゲリラ戦を得意とし、隊員が黒装束だったためカラスに例えられた。最新式の銃火器で武装した新政府軍と白昼に真正面から戦うことを避け、刀ややりによる接近戦に持ち込んで連勝を重ねた。
 下級藩士の細谷は藩の偵察役として諜報(ちょうほう)活動に従事し、各地の博徒や侠客(きょうかく)と人脈ができた。白河で大敗した仙台藩のふがいなさを嘆いた細谷は、こうした無頼の徒を集めて隊を結成した。
 須賀川の妓楼(ぎろう)に「仙台藩細谷十太夫本陣」と張り紙をして「手柄を挙げたい者は誰でも来い」と呼び掛けると、57人が集まったという。身分を問わず有志を募る方式は、長州藩士高杉晋作の奇兵隊にも通じる。
 神出鬼没で新政府軍を悩ませたからす組は「細谷からす なけりゃ官軍高枕」とうたわれた。捨て身の接近戦は戦死率も高かったらしい。まさに命知らずのアウトロー集団だ。
 型破りの活躍は昭和の大衆小説や映画の題材に好んで取り上げられた。作家の大仏次郎や子母沢寛、映画監督の岡本喜八らが細谷を主人公とした作品を残している。
 仙台市若林図書館の佐藤文博副館長(43)は「アウトローの躍動する物語は大衆が活力を求めた昭和の時代背景とうまく合致した」と語る。

 1868(明治元)年旧暦9月10日にあった旗巻峠(宮城県丸森町、相馬市)の戦いは、からす組が参加した戦場の一つ。仙台藩最後の戦いとなった筆甫(ひっぽ)とともに丸森町は宮城県内で唯一、戦場となった地域だ。
 細谷はその後、波乱の人生を経て龍雲院(仙台市青葉区)の僧になり、戊辰戦争の犠牲者を弔って晩年を過ごした。1900年にあった旗巻峠の慰霊祭は細谷が導師を務め、本人が揮毫(きごう)した「旗巻古戦場之碑」が今も立つ。

[細谷十太夫]生年は1840年、または45年とされる。生家は仙台藩大番士。早くに両親を亡くして祖父に育てられ、貧窮のため塩釜の寺小姓に出される。元服して藩士となり、京都詰めとなるが、芝居小屋で暴力沙汰を起こして帰仙。石巻鋳銭場役人や探索方を歴任する。戊辰戦争後は西南戦争に陸軍少尉として参戦。その後は石巻開墾に尽力し、北海道に渡る。94年日清戦争に参加、千人隊長。帰国後は仏門に入り、仙台に戻って龍雲院住職。1907年死去。同寺には細谷の墓のほか、座像「細谷地蔵」が立つ。

(文・酒井原雄平/写真・岩野一英)


2018年09月30日日曜日


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