<奥羽の義 戊辰150年>(32)将棋駒奨励の祖無念の死

天童藩士の内職として始まった駒作り。その技は現代の職人たちに受け継がれ、名産品になっている。「将棋文字」と呼ばれる書体を印刀で刻む彫り師の高橋恒彦さん(61)=天童市山元の自宅工房
切腹した吉田大八の血しぶきで赤く染まったと伝えられる「血染めの天井」。天童藩の悲運の歴史を今に伝える=天童市小路の観月庵

◎第5部 列藩同盟崩壊/天童藩

 天童市は将棋駒の生産量が日本一。シェアは9割超を誇る。市内各所に駒の形を模した看板などが置かれ、将棋は天童のシンボルと言える。その礎を築いたのは幕末の天童藩家老吉田大八。同藩の奥羽列藩同盟加入を巡って非業の死を遂げた。
 天童藩は織田信長の家系の名門だが、石高2万の小藩。藩士の生活は苦しく、吉田は内職として将棋駒作りを奨励した。他の執政の反対に対して「将棋は兵法戦術に通じる。武士の面目を傷つけるものではない」と説得したという。
 1868(慶応4)年旧暦4月、庄内藩討伐を進める新政府の奥羽鎮撫(ちんぶ)総督府は天童藩に先導を命じた。同藩は庄内藩と事を構えたくなかったものの、命に従い、藩主に代わり吉田が案内した。新政府軍は同月24日、清川(現在の山形県庄内町)で庄内藩を攻撃。だが猛反撃に遭い、天童城下まで焼かれてしまった。
 この直後、白石で奥羽列藩同盟の結成会議が開かれ、状況が一変。天童藩も同盟加入を決めた。ただ、庄内藩は引き換えに吉田の身柄引き渡しを求めた。新政府軍を先導した吉田をよほど敵視したようだ。身を隠していた吉田は意を決して出頭。6月18日、天童の観月庵(観月山妙法寺)で切腹した。
 吉田は古式にのっとって十字に腹を切り、介錯を制して自ら首を突き絶命。血しぶきが天井まで飛んだ。その後、建物は2度改築されたが「血染めの天井」は現在も保存、使用されている。妙法寺の矢吹海慶住職(86)は「大八は藩を救うため、進んで犠牲となった」と話す。辞世の句は「我のみは涼しく聞くや蝉(せみ)の声」。「自分の行いの正しさが分かる日がいずれ来る、との思いを感じる」と矢吹住職は言う。
 天童の将棋駒は明治以降、作業の機械化などを経て一大産業に発展した。天童商工会議所専門員の津藤弘志さん(60)は「観光への寄与も含めて、将棋は天童に不可欠の存在」と語る。戊辰戦争の露と消えた吉田の遺産は、150年を経て地域経済を支え続ける。(文・酒井原雄平 写真・岩野一英)

[天童将棋駒]山形県将棋駒協同組合(天童市)によると、2017年度の将棋駒関連商品の生産額は2億7400万円。約60人が関連産業に従事する。伝統工芸士は5人。高級品は国産ツゲを使い、中でも文字を彫った後、漆を重ねて字を浮き上がらせる「盛り上げ駒」は最高級品としてプロの対局でも使われる。将棋グッズは天童市のふるさと納税の返礼品になっているほか、最近は藤井聡太七段の活躍による将棋ブームも追い風という。市観光物産協会のご当地キャラクター「こま八」は将棋駒と吉田大八がモチーフ。


2018年12月30日日曜日


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