<奥羽の義 戊辰150年>(40)逆境乗り越え耕土豊かに

岩出山伊達家の当主と家臣が入植した北海道当別町の大地。厳しい冬を幾度も乗り越え、実り豊かな開拓地に育て上げた
聚富に立つ「伊達邦直移住の地」の碑。最初の入植地だったが、日本海からの風が吹きすさぶ砂地。農業に適さず、代替の地を探すことになった=北海道石狩市厚田区

◎第7部 再起/北海道入植

 1871(明治4)年、北海道聚富(しっぷ)(現在の石狩市厚田区)に入植した岩出山伊達家の開拓移住者が直面したのは過酷な現実だった。砂地で風は冷たく、種や苗が育たない。当主の伊達邦直自らも連日くわを握ったが無駄に終わった。
 失望と将来への不安が広がる中、情報がもたらされた。「20キロ東の当別(当別町)は有望らしい」。家臣は道なき道を野宿しながら現地へ向かった。そこには豊かな土壌があった。所領替えを申請し、近隣の建設工事を請け負って資金を蓄え、原生林を伐採して当別まで道を造った。
 入植計画が軌道に乗ったと思われた途端、予想外の事態に見舞われた。廃藩置県に伴い家臣が平民籍に編入されたのだ。士族であり続けるために開拓で新たな領地を得るという目的が根幹から崩れた。
 「もはや当別にいても無意味」「だまされた」。脱走者が現れ、岩出山でも疑問視する声が出た。邦直は戊辰戦争で着せられた朝敵の汚名をそそぐために開拓に挑むのだと説き、続行を決断した。
 入植後、自治と協働を促そうと全49条の「邑則(ゆうそく)」(村の規則)を制定。衆議や平等、情報共有を重視する内容で、開拓進展の大きな力になった。家臣には最先端の農業を学ばせ、トウモロコシ、タマネギ、アスパラガスなどの栽培に成功した。
 開墾小屋で豪雪に耐える生活は厳しかった。洪水やバッタの被害にも遭った。それでも入植は第2陣、第3陣と続き、やがて大地は豊かな耕土へと変貌を遂げた。85年、岩出山伊達家は開拓の功績を認められ、念願の士族復籍を果たす。岩出山に残って帰農した人々も製糸場を造るなどして地域を発展させた。
 当別町には邦直をまつる当別神社や、伊達邸別館(町文化財)、移住者の史料を展示する当別伊達記念館がある。
 岩出山伊達家16代当主の伊達宗尚さん(74)=福島市、仙台藩志会副会長=は「当別で開拓に励んだ人、岩出山に残って頑張った人、それぞれに頭が下がる思いだ」と語った。(文・酒井原雄平 写真・岩野一英)

[仙台藩士の北海道開拓移住]戊辰戦争後、仙台藩士が北海道に開拓移住した例は多く、岩出山伊達家の他に亘理伊達家が有珠郡(現在の伊達市)、角田石川家が室蘭(室蘭市)、白石片倉家が幌別(登別市、後に札幌市白石区に移る)に入植した。

[北海道当別町]人口1万6042(2月1日現在)。トウベツはアイヌ語で沼から流れる川の意味。近年は隣接する札幌市のベッドタウンとしても発展する。大崎市とは姉妹都市。同市岩出山のあ・ら・伊達な道の駅には当別町に生産拠点を置くロイズコンフェクト(札幌市)のチョコレートを扱う常設コーナーがあり、人気を集める。


2019年02月24日日曜日


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