<奥羽の義 戊辰150年>(41)苦難超え実った「緋の衣」

会津から北海道へ渡った人々の苦労が結実したリンゴ「緋の衣」。その名に会津藩の生きざまを込めたリンゴは、今もまだ北の大地で実っている=2018年10月、余市町農村活性化センター
旧会津藩が栽培に成功したリンゴ「緋の衣」はかつて余市町を代表する品種だった。「北海道名産」という、立派なラベルを付けられていた

◎第7部 再起/余市の旧会津藩士

 北海道余市町は、日本で初めてリンゴの民間栽培に成功した地とされる。入植した旧会津藩士が「緋(ひ)の衣(ころも)」という品種を実らせたことに始まる。元藩主松平容保(かたもり)が幕末に京都守護職に就任した際、孝明天皇から信頼の証しとして贈られた御衣の赤色が品種名の由来だ。
 戊辰戦争で敗れた会津藩は現在の青森県下北地域に移封され斗南(となみ)藩となった。旧藩士は「会津降伏人」と呼ばれ、移住した1万7000人が不毛の地で窮乏生活を強いられた。
 一方、新政府が推し進める北海道開拓に応募した者もおり、1871(明治4)年に600人が余市へ入植した。血判状に署名し、並々ならぬ決意で赴いたという。75年、開拓使庁から西洋リンゴなどの苗800本が配布され、栽培が始まった。
 刀を農具に持ち替えて、未知の果樹に挑むのは困惑の連続だっただろう。それでも熱心に取り組んだ結果、79年に赤羽家が育てた品種番号19号が6個、金子家の同49号が7個、落果せずに初めて収穫できた。
 深紅に実った19号が、後の緋の衣である。かつて会津藩が京都の治安維持に尽くし、孝明天皇の信頼を得た過去を象徴する名前。「自分たちは決して朝敵ではない」との入植者の悲痛な思いが表れている。49号は「国光(こっこう)」と名付けられ、後にふじの交配親となった。
 80年、札幌で開かれた農業博覧会で大好評を博し、リンゴ栽培は全国に拡大。緋の衣は小樽港からロシアに輸出されるなど、長く余市リンゴの主力を担った。しかし昭和40年代に入ると新たなデリシャス系品種に押されて栽培面積が激減。北海道のリンゴ生産量も青森県などに抜かれた。緋の衣は現在、町内でわずかに栽培される程度だ。
 余市町農村活性化センターには緋の衣の木が2本ある。昨年10月にもたわわに実った。同センターの新谷裕係長(57)は「入植者が苦労して始めたリンゴ栽培を次世代にも受け継いでほしい」と話す。
 緋の衣を一つ頂いた。口中に爽やかな酸味が広がった。
(文・酒井原雄平 写真・鹿野智裕)

[北海道余市町]人口1万8813(3月1日現在)。積丹半島の付け根に位置し、昭和初めまではニシン漁で栄えた。リンゴやブドウ、ナシなどの果樹生産で道内有数の規模を誇る。中心部には旧会津藩士が建立した開村記念碑(町文化財)がある。竹鶴政孝が1934年に余市で創業した大日本果汁(現ニッカウヰスキー)は当初、ウイスキーが熟成するまでの間、余市産のりんごジュースを製造・販売した。6年後に第1号のウイスキーを出荷した際、大日本果汁を縮めて「ニッカ(日果)」をブランド名とした。


2019年03月10日日曜日


先頭に戻る