駒ケ嶽(こまがたけ)─明治期の力士(涌谷町)─気品漂う悲運の名大関

仙台市青葉区の西公園にある石碑
新入幕時の勇姿。涌谷町の清浄院本堂に飾られている
地元の後援会関係者と写真に納まる駒ヶ嶽(前列右から2人目)。撮影時期は不明だが、涌谷町内で撮影されたとみられる

 涌谷町出身の駒ケ嶽(1880〜1914年、本名・菊地國力(くにりき))は明治末期、豪快な取り口が人気の大関だった。横綱昇進が期待されながら、33歳で現役中に急死。知られざる悲運の名力士だ。
 188センチ、135キロの堂々たる体格と、気品漂う土俵さばきが好角(こうかく)家(か)に支持された。横綱になれば、江戸相撲の大横綱「谷風」を襲名するともいわれた。
 16歳で入門し、22歳で新入幕を果たした。第19代横綱常陸山に次代を担う若手として見込まれ、熱心に稽古を付けられたという。
 三段目時代からの好敵手で、後の第22代横綱太刀山との出世競争は角界の華だった。大関昇進は26歳。太刀山よりも2年早かった。
 しかし、30歳で迎えた1911年5月場所の千秋楽、横綱になっていた太刀山との全勝対決に敗れた。結果的に、これが最後の綱とり挑戦と初優勝のチャンスだった。
 元来大酒飲みだったが、綱に届かない失意から飲酒量が増え、成績は下り坂となる。
 14年4月11日、茨城県での巡業中に脳出血で急死した。酒屋でどぶろくを大量に飲んで眠り込み、胃の中で酒が発酵したのが遠因だったと伝わる。
 53年刊行の伝記「大豪 駒ケ嶽」は、横綱や大関との真っ向勝負には強かったが、小兵力士に隙を突かれて星を取りこぼしたことが横綱昇進を阻んだと記す。幕内成績は105勝41敗22分7預45休の記録が残る。

 涌谷町史によると、情に厚い性格が角界関係者のほか、涌谷町や仙台市の財界人らに愛されたという。急死から3年後の17年、弟子らによって、仙台市の西公園内に石碑が建てられた。
 石碑のネット上の地図表記は、長らく「谷風の碑」だった。元涌谷町商工会(遠田商工会)会長で、地元の偉人の業績を調べていた和賀孝夫さん(72)が、2018年末に誤りに気付いた。
 和賀さんは関係者と協力し19年6月、「力士 駒ケ嶽の碑」と改訂し、石碑の説明文も設置した。
 涌谷町に残る史料が限られるため、駒ケ嶽の経歴には謎が多い。直系の家族は早くに町を離れ、本人の墓も東京都内の寺にある。加えて「大関止まり」だったことで、横綱と違って研究が進まなかったとみられる。
 町内に偉業を伝える碑や銅像が建てられることはなく、「今では駒ケ嶽を知る町民は少ない」と和賀さん。一時代を築いた名大関としての伝説だけが残った。
 駒ケ嶽没後106年。県内から大関は誕生していない。
(小牛田支局・山並太郎)

[メモ]駒ケ嶽の石碑は仙台市青葉区の西公園「桜岡大神宮」そばにある。弟弟子の横綱西ノ海(2代目)、弟子の宮城山(大崎市出身)と駒泉(美里町出身)が建立した。題字を揮毫(きごう)したのは伊達家15代当主邦宗、文の起草は仙台藩士で国学者の大槻如電と伝わる。


2020年06月08日月曜日


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