布施辰治(ふせ・たつじ)―弱者に寄り添った弁護士(石巻市)―正義掲げて共闘と連帯

住宅街の公園内にある顕彰の碑と、事務局長の三條さん=石巻市あけぼの
布施辰治
布施の生家近くに立つ生誕の地碑

 「生きべくんば民衆とともに、死すべくんば民衆のために」
 石巻市あけぼの地区の住宅街にひっそりとたたずむ碑。旧蛇田村出身の弁護士、布施辰治(1880〜1953年)の言葉が刻まれている。
 布施は自らの信念に終生、忠実に生きた。
 弁護に当たったのは労働者、農民、無政府主義者や社会主義者、朝鮮半島と台湾の人々。弁護士資格を奪われ、治安維持法違反などで2度の投獄に遭いながらも彼らに寄り添い続けた。
 「祖父にはいつもヒューマニズムに根差した感情があったように思う。掲げた正義は善意の押し付けではなく、共闘と連帯の呼び掛けだった」
 布施の孫で、出版社「日本評論社」の社長や会長を務めた大石進さん(85)=神奈川県鎌倉市=が語る。布施の晩年、その在りし姿をそばで見詰めた。
 布施は1899年4月に19歳で上京。同年秋、明治法律学校(現・明治大)に入学し、卒業直後の判事検事登用試験に合格した。受験者は1094人。合格者138人のうち、布施は上から5番目の成績だった。
 1902年暮れ、司法官試補として宇都宮地裁に赴任するが、1年もたたずに検事代理の職を辞する。不遇な母親が子どもに手を掛けた心中事件で、殺人未遂として有罪にすることへの抗議の辞任だった。
 布施の没後65年に当たる2018年、三條信幸さん(69)=石巻市=は演劇で布施本人を演じた。上演で機運が高まり、19年に再結成された顕彰会の事務局長を務める。
 三條さんは言う。「検事としての出世を一切顧みなかった。その後も自らの意志を貫き続けた布施の原点ではないか」
 官職を辞した布施は弁護士の道へ進む。1920年初夏に「自己革命の告白」と題した文章を発表。冤罪(えんざい)を訴える者や経済弱者、言論弾圧に遭った者など今後は「社会的意義を含む」事件に専念すると宣言した。
 前後して扱った事案は米騒動、朝鮮独立運動、労働争議、小作争議、入会権紛争など多岐にわたる。引き受け手のいない刑事被告人の弁護を無条件で受任し、「死刑囚弁護士」と呼ばれるようにもなった。戦後は、終戦直後の混乱の中で起きた三鷹事件と松川事件で弁護を引き受けた。
 布施は現代にどのような意味を投げ掛けるのか。
 「正しく生き抜こうと思ったとき、私たちの背中を押してくれる存在であり続けてほしい」。孫の大石さんは願う。
(石巻総局・樋渡慎弥)

[メモ]日本による植民地統治時代、布施は三・一独立運動(1919年)の先駆けとなった朝鮮人留学生独立宣言事件をはじめ、多くの朝鮮の人々の弁護に当たった。韓国政府は2004年12月、国家の独立と発展に貢献したとして、布施に日本人で初めて「建国勲章」を授与した。


2020年06月19日金曜日


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