小野さつき(おの・さつき)─旧制小学校教諭(蔵王町)─教え子への無償の愛  

白石川の殉職地近くに立つ石柱の碑。事故が起きた河原は下流にせきが造られ今はない
小野さつき
事故当時の着物、懐中時計などの遺品や写真が並ぶ小野さつき訓導遺徳顕彰館

 蔵王町宮地区の白石川のほとり。川面を見守るように立つ石柱の碑が約100年前、この地で起きた悲話を物語る。
 1922(大正11)年7月7日、刈田郡宮尋常高等小(現蔵王町宮小)。訓導(教諭)の小野さつきは受け持ちの4年生56人を連れ白石川に写生に出掛けた。
 河原は気温30度近い炎天下。児童から水遊びを再三せがまれ「足だけなら」と許した。
 突然、騒ぎ声が響く。川を見ると児童3人が深みにはまり、溺れかけていた。はかま姿のまま川に飛び込んだ小野。2人を助け上げて力尽き、残る1人の男児とともに命を落とした。
 21歳で着任わずか3カ月余りの新米教師の殉職は、美談として全国を駆け巡った。新聞や雑誌がこぞって取り上げ、映画にもなった。
 小野をたたえる唱歌「小野訓導の歌」は山田耕筰の作曲。声楽家の三浦環は弔電を打ち、仙台公演で小野が好んだ歌をささげた。三波春夫は自ら手掛けた「花咲く墓標」を歌った。
 宮小の浅野恵一校長(57)は「自分の身をなげうってでも教え子を救おうとした無償の愛が今も昔も多くの人の心に響く。子どもに一生懸命に向き合った誠実さが伝わる」と感じ入る。
 当時の文部大臣が表彰状を贈り、1万人もの参列者がいたという村葬で県知事が弔辞を読んだ。葬列を記録した写真には「小野訓導之英霊」との弔旗が写る。
 日清、日露戦争や第1次世界大戦と相次ぎ大きな戦争を経験していた世情。町教委生涯学習課の佐藤洋一課長補佐(50)は「本来なら戦死者を示す表現が使われたのは興味深い。現代なら原因や責任が追及されそうな事故だが、当時の国家観や社会観から使命のために命を全うした側面が強調されたのだろう」とみる。
 「よくぞ死んでくれた」。小野の亡きがらに父政治が掛けた言葉という。
 「人様の子どもを死なせ、自分の娘だけ生き残っては申し訳が立たないという気持ちだろう。思いは今も変わらない」と兄の孫の小野正昭さん(77)=白石市=。男児を亡くした父親も「息子のために先生を死なせてしまい申し訳ない」と思いやった逸話が残る。
 宮小は毎年命日の7月7日か前後の平日、全校児童や関係者が集まる追悼式を開く。昨年の児童代表は「自分の命を大切にすることを忘れません。今までより人に優しくしたい。気付けたのは小野先生の勇気のおかげです」と語った。
 紡がれる命の物語。来年7月、100回目を迎える。
(白石支局・村上俊)

[メモ]小野さつき訓導遺徳顕彰館が宮小敷地内にある。1901年6月、現在の白石市福岡長袋で5人きょうだいの末っ子として生まれ、県女子師範学校に進んだ歩み、事故を伝える学校日誌や出版物などを紹介。観覧時間は平日午前9時〜午後4時半で、夏や冬に長期休館する場合がある。連絡先は同小0224(32)2004。


2020年06月26日金曜日


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