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<回顧3.11焦点>津波から船守る「沖出し」 戻った船と波に飲まれた船、明暗を分けたのは…

避難した高台から、津波が来た沖合の方角を望む漁師=宮城県山元町の磯崎山公園

 東日本大震災の直後から、被災地で暮らす市民の課題を取り上げた河北新報連載「焦点」。震災7年の節目に、発生翌年までの主な記事をまとめました。
=肩書や年齢は掲載当時のものです。=

<是か非か/津波から船守る「沖出し」>
 「地震が来たら沖に出ろ」。船を守るため、各地の漁師たちの間で言い継がれてきた先人の教えだ。東日本大震災では、沖に出て津波を乗り切った船がある一方、波にのまれた船もあった。津波から逃れるため漁船を沖に避難させる「沖出し」は、そもそも危険な行為と言われる。明暗を分けたのは何だったのか。沖出しは是か非か。(勅使河原奨治)

<無事/浜の立地・水深幸い>
 沖に出た18隻の全てが無事、港に戻った。宮城県南三陸町歌津の石浜地区。「沖出し」の成功は、浜の立地や水深、津波の高さなど好条件の重なりが背景にあった。
 石浜の漁師佐藤登志夫さん(63)は、小型船で岸壁近くの測量を手伝っているとき、地震の揺れを感じた。「岸壁の突端で、潮がざわめくように緩やかな渦を巻いていた」。即座に港に戻って、測量業者を降ろした。中型船に乗り換え、沖を目指した。
 佐藤さんの出港後、潮が徐々に引き始めた。加藤良明さん(59)は地震から約20分後に港を出た。港の水深が浅くなったため、船外機を斜めに上げ、かじを取った。18隻目が出発したのは地震の約30分後だった。
 加藤さんは「波があと10分早く来ていたら、半分ぐらいがのまれていただろう」と振り返る。
 18隻は港から約500メートル沖合、水深約30メートルの地点で最初の津波を乗り切った。「第1波が小さかったのも幸いした」と佐藤さんは言う。
 沖合に大きな第2波が見えた。船団は沖合約1キロ、水深50〜70メートルの海域にさらに避難した。「船は波にふわりと乗るように上下に動くだけだった」(佐藤さん)。振り向くと、第2波が港を襲っていた。
 船団は押し寄せたがれきと連発された津波警報で、港に戻れず、海上で3夜を過ごし、3月14日の朝に港に戻った。
 石浜地区は歌津半島の先端部分に位置する。湾の奥行きは約350メートル。湾を出るとすぐ外洋に面する。リアス式海岸のため、岸から水深の深い場所までの距離も短い。
 漁師の佐藤孝悦さん(61)は「好条件が重なって船を守れた。無事だった船で早く漁を再開し、地域を元気にしたい」と語る。

<被災/遠浅の海、引き潮急>
 「俺は行く」。そう言って海に向かった男が、再び浜に戻ることはなかった。宮城県山元町の磯浜漁港。経験のない激しい揺れに漁師たちが沖に船を出すか、陸に逃げるかで迷う中、ただ一人、沖に出た。
 磯浜の複数の漁師によると地震当時、浜では10人ほどの漁師が漁具の整理などをしていた。
 男性は地震の約10分後に港を出た。間もなく、港に変化が表れた。「波が『ぴちゃぴちゃ』と小刻みに揺れ、潮が引いていった」(地元漁師)
 磯浜の漁師星義雄さん(83)は家族を避難させるため、いったん自宅に帰り、港に戻った。
 「船を出そうとしたが、もう出せないくらい潮が引いていた。無理に出港していたら、自分も駄目だっただろう」
 星さんら数人の漁師は、近くの高さ約20メートルの磯崎山公園に登った。海を望むと、数百メートルにわたって海の底が見えたという。
 「1キロ以上沖合で、引き潮で水深が異常に浅くなり、動けなくなっている船が見えた。男性の船だったのかもしれない」と星さんは言う。
 磯浜の海は遠浅だ。津波の影響を受けにくい目安とされる水深50メートルの所まで、浜から約32キロはある。一般的な漁船の速度は10〜20ノット。20ノット(時速約37キロ)出る漁船でさえ1時間近くかかる計算だ。
 地震の約1時間後、磯浜を津波が襲い、波は磯崎山公園にいた漁師たちの膝元にまで達した。
 数週間後、一人沖に向かった男性は相馬沖の海底で見つかった。真っ二つに割れた船の片方にロープで体を縛り付けていたという。
 磯浜の漁師たちは「最後まで船と一緒だった。船が遺体の場所を教えてくれたのだろう」と悼んだ。=2011年5月14日河北新報


2018年02月26日月曜日


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