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<震災7年>3.11後方支援の教訓 遺体受け入れ 葬儀も

震災発生直後から名取市などの遺体を受け入れ、火葬した上山市経塚斎場

 東日本大震災で壊滅的な被害を受けた宮城が、発生直後から再生に向けて歩みだせた陰には、奥羽山脈の西に広がる山形からの迅速かつ幅広い支援があった。窮地にある宮城を救うため、復旧復興を下支えするため、「隣人」たちは何を考え、どう行動したのか。被災と支援を巡る教訓を仙山圏に探る。(山形総局・須藤宣毅)

◎再生への仙山連携(6)火葬

 上山市で斎場を維持管理する市民生活課主任、加藤昌孝さん(58)には今も頭から離れない光景がある。

<スタッフを増員>
 丘の上の斎場に、仙台市若林区の若い夫婦が訪れたのは2011年3月25日。運ばれた三つのひつぎの小ささに目を疑った。東日本大震災の犠牲になった幼児3人の遺体が納められていた。
 火葬する間、夫婦は炉の扉の前から片時も離れなかった。親の無念さは察するに余りある。「お骨を抱きかかえて帰る2人に、どう声を掛けていいのか分からなかった」と振り返る。
 姉妹都市の名取市から3月13日に届いた支援要請は、冒頭に「火葬の受け入れ」とあった。上山市はすぐに仮設の遺体安置所2棟を手配。斎場は通常1日4体の火葬が限度だが、スタッフを増員し、時間を延長して12体まで対応できる態勢を整えた。

<戒名や遺影なし>
 翌14日に最初の犠牲者を受け入れてからは、名取市周辺から搬送される遺体も増加。4月25日までに名取市をはじめ宮城県の128遺体を火葬した。
 上山まで来られる遺族は限られていた。葬儀業者が複数の遺体を伴って訪れ、後日、別の遺体を搬入する際に遺骨を持ち帰ることもあり、そんな時は斎場スタッフが収骨に当たるしかなかった。多くは戒名や遺影もなく、被災地の混乱ぶりがうかがい知れた。
 震災発生直後、多数の遺体が収容された宮城県沿岸部では、火葬場が設備の損壊や燃料不足、停電の影響で機能不全に陥り、石巻市など6市町で仮埋葬を余儀なくされた。
 しかし、火葬を望む遺族は多く、山形県は3月13日、市町村に火葬の受け入れを要請。翌14日からは受け入れ可能数を集約し、被災県に情報提供した。

<化粧を施し弔う>
 山形県内で葬儀をしたケースもあった。平安堂葬祭店(大石田町)の星川澄男会長は3月22日、村山市を経由して石巻市の遺族から葬儀の依頼を受けた。
 すぐに霊きゅう車を出し、国道47号から現地入り。80代の夫婦を納棺し、その日のうちに斎場のある尾花沢市へ戻り、翌23日には、読経の中で荼毘(だび)に付すことができた。
 遺族は火葬の受け入れ先が見つからず、仮埋葬せざるを得ない状況だった。星川会長は「よほどつらかったのだろう。火葬と葬儀ができたことを何度も感謝された」と言う。
 震災1カ月後からは、石巻、東松島両市の遺族から仮埋葬した遺体の火葬を頼まれるようになった。油圧ショベルを手配し、霊きゅう車とともに現地の墓地に向かった。引き取った後、納棺師が衣装を替え、化粧を施して弔った。
 同社は発生直後から、宮城、山形両県を霊きゅう車を何往復もさせ、27体を火葬した。山形県内でもガソリンが不足する中、遺族の希望に応えられたのは、災害に備えて2キロリットルのガソリンを確保していたからだ。
 星川会長は阪神大震災の直後、霊きゅう車で被災地を支援した経験がある。「まさか宮城の犠牲者を受け入れるとは思わなかったが、震災後の葬儀店の役割を阪神で知ったことが東日本につながった」と明かす。

[メモ]東日本大震災の発生から約1年間で、山形県は宮城県から運ばれた1110遺体を火葬した。自治体別で多かったのは米沢市183体、山形市141体、上山市128体、西村山広域行政事務組合(寒河江市)106体、天童市92体などだった。


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2018年03月04日日曜日


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