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<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(7)白河口の大敗 軍内に亀裂

奥羽越列藩同盟が使用したとされる旗。作製の時期や経緯、使われた場所などは分かっていない(米沢市の宮坂考古館所蔵)
ほし・りょういち 1935年5月、仙台市生まれ。東北大文学部卒。著書に「奥羽越列藩同盟」「偽りの明治維新」「東北を置き去りにした明治維新」など。NHK東北ふるさと賞など受賞。郡山市在住。

 東北は今年、戊辰戦争が勃発してから150年の節目を迎えている。各地を戦禍に巻き込んだ戦争はなぜ起きたのか。奥羽諸藩は本当に「賊軍」だったのか。東北近代の歩みにどのような影響を与えたのか。研究者らの視点を通し、改めて戊辰戦争を問い直す。(会津若松支局・跡部裕史、福島総局・大友庸一)

◎奥羽越列藩同盟はなぜ敗れたか(上)歴史作家・星亮一さん

 <戊辰戦争をテーマに小説を書き続ける歴史作家星亮一さん(82)は、奥羽越列藩同盟の目的を「薩長を駆逐し、新政権をつくることだった」と語る>

◎官軍へ反感募る

 1868年1月の鳥羽・伏見の戦い後、15代将軍徳川慶喜は謹慎した。幕府の勝海舟と新政府軍の西郷隆盛が会談し、江戸城は無血開城となった。割を食い、いけにえにされたのが会津藩。将軍が恭順した以上、会津藩に罪はなかった。
 新政府は奥羽鎮撫(ちんぶ)総督府を仙台に派遣。総督府は仙台藩に会津藩の攻撃を命じたが、仙台には「なぜ会津を攻撃するのか」という疑問があった。玉虫左太夫らを派遣し、会津藩の意向を探った。
 藩主松平容保(かたもり)は玉虫らに幕府に倣って恭順する意向を示したにもかかわらず、総督府の下参謀世良修蔵は怒り、仙台藩に容保の斬首を命じた。
 仙台藩と米沢藩は、会津藩の首謀者(家老)の首を条件に仲介しようと試みる。会津藩は断ったが「戦争と首謀者の首を出すのとどちらがいいか」と説得され、両藩にげたを預けた。だが、世良の要求はあくまで容保の首だった。
 怒った仙台藩士は世良を殺す。世良ら新政府軍兵士の官軍らしからぬ傍若無人な振る舞いが背景にある。仙台人を侮辱し、反感を買っていた。
 同時期に奥羽越の各藩が集まって列藩同盟を結成した。当初は会津藩への寛大な処置を嘆願する平和同盟だったが、拒否されたことで軍事同盟に転換した。

<68年6月、白河口で戦いが始まる>

◎兵器の差は歴然

 仙台藩と会津藩が白河を死守する盟約だった。ところが、戦争が始まると、午前中に負けてしまう。同盟にとって大誤算だった。
 十分な打ち合わせの時間がないまま戦闘に突入したため、両藩の連携が良くなかった。加えて主力の会津藩の総督西郷頼母に実戦経験がなかった。
 西郷は非戦派で容保の京都守護職就任に反対した。結局、会津藩は京都から戻り、藩内に西郷が正しかったという雰囲気が広がった。容保が西郷を総督にしたのは懐柔策だったのかもしれない。
 同盟はゲリラ戦法で時間を稼ぐ必要があった。新選組から夜襲を仕掛ける提案があったが、西郷は「堂々と戦う」と断った。どういう作戦を取るべきか分からない人を選んだことが失敗だった。
 兵器の差も歴然としていた。同盟軍の人数は相手の倍以上いたが、大砲は旧式。連発銃も少なく、旧態依然の軍備だった。対する新政府軍は最新式の大砲や連発銃で圧倒した。

<白河口の戦いの大敗はどう影響したか>

 同盟軍内に「大丈夫か」という疑問が湧き、仙台藩のうち水沢の軍は白河から引き上げた。白河城奪還は約3カ月試みたが、実現できなかった。
 仙台藩内部でも厭戦(えんせん)気分が出た。「会津を支援するべきだ」という主流派と、「薩長と手を握った方がいい」という反主流派の対立があり、次第に反主流派が力を付けた。
 初戦は何としても勝つ必要があった。戦争後、会津藩士秋月悌次郎は「白河が全てだった」と無念の詩を詠んでいる。

[玉虫左太夫]1823〜69年。仙台藩士。世界1周から帰国後、藩校養賢堂指南統取。

[西郷頼母]1830〜1903年。会津藩家老。非戦和平を主張した。会津戦争で一家21人が自刃した。

[新選組]京都守護職の下で京都の治安維持に当たり、尊攘(そんじょう)派を制圧した。近藤勇、土方歳三らが中心メンバー。

[秋月悌次郎]1824〜1900年。会津藩軍事奉行添役。戊辰戦争後、教育者として活躍した。


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2018年03月27日火曜日


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