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<戊辰戦争150年>論考・維新と東北(8)仙台藩 人質手放す大失態

1995年に復元された白石城。戊辰戦争勃発後、奥羽越列藩同盟締結の舞台になった

◎奥羽越列藩同盟はなぜ敗れたか(下)歴史作家・星亮一さん

 <歴史作家星亮一さん(82)は、奥羽越列藩同盟の盟主、仙台藩の責任は重大だったとみる>

≪秋田藩が寝返り≫

 仙台藩の戦略は稚拙だった。仙台に滞在していた奥羽鎮撫(ちんぶ)総督府総督の九条道孝は会津藩の降伏謝罪を認め、奥羽越列藩同盟と運命を共にする意向を示していた。九条は同盟にとって大切な人質だった。

 だが、仙台藩は九条奪還をもくろむ佐賀藩士前山清一郎にだまされてしまう。前山は「九条総督と、秋田にいる副総督を一緒に連れて京都に戻り、朝廷に戦争中止を訴える」と語った。仙台藩は信じて総督を手放してしまった。

 この失態は大きい。九条総督一行が秋田入りすると、秋田藩は反同盟に傾く。仙台藩は使節を派遣したが、新政府軍に同調した若い秋田藩士に皆、斬殺された。秋田藩は同盟に宣戦を布告。仙台藩は秋田攻撃に向かわざるを得なくなり、白河方面と兵力を二分された。

 <同盟に参加した各藩の意識はさまざまだった>
 秋田藩は「官軍」になったが、庄内、仙台藩などと壮絶な戦いを強いられた。戦争後は石高が少し増えただけで、得た物は多くはなかった。

 仙台藩と共に同盟を主導した米沢藩は、上杉家がかつて越後の領主で、「戦争に勝てば、越後に戻れる」と意欲を燃やした。だが、江戸家老が「江戸は薩長が支配し、大勢は決まった」という情報を入れ、同盟に疑心暗鬼になった。白河で敗れた会津藩の援軍要請を断り、越後の戦闘も及び腰となった。

 庄内藩は薩摩藩と因縁がある。庄内藩は江戸の薩摩藩邸焼き打ちを実行し、会津藩と共に朝敵とされた。焼き打ちは、江戸で騒乱を起こし、戦争に持ち込むという薩摩藩士西郷隆盛の謀略で引き起こされたとする説がある。

 秋田藩を攻めた庄内藩は、豪商本間家が金を出して新式銃を買ったため連戦連勝だった。降伏後は西郷が寛大な態度を示し、薩摩との交流が続いた。

 長岡藩は家老河井継之助が中立を宣言したが、新政府軍に受け入れられず戦いを始めた。河井は「越後の竜」といわれた傑出した人物だが、中央では無名。京都で存在感を示しておくべきだった。

 盛岡藩は家老楢山佐渡が列藩同盟は正義と信じた。同盟を裏切った秋田を攻めたが、新政府軍にしてみれば仲間同士の戦いにすぎなかった。

 戊辰戦争から50年後、藩出身の原敬は「戊辰戦役は政見の異同(考え方の違い)のみ。勝てば官軍、負くれば賊軍」と語っている。薩長藩閥政治に挑んだ原は東北初の総理大臣に就任し、佐渡の恨みを晴らしたといえる。
 <奥羽越列藩同盟の意義は何だったのか>

≪北方政権目指す≫

 歴史上初めて東北は一つという発想で連携できたのは画期的。今の地方の時代につながる先駆的な行動だったと言えるだろう。

 基本にあったのは仙台藩の玉虫左太夫が米国で見た共和政治。公正正義、衆議、弱者への思いやりを込めた画期的な連帯だった。幕府再興ではなく、薩長新政府に対抗する北方政権を旗揚げしようとした。

 同盟はうまく戦えば、新政府に日本をリードする人材を出したかもしれない。しかし、そうならず、東北は「白河以北 一山百文」という汚名に泣いた。

[薩摩藩邸焼き打ち]1868年1月、浪士らの略奪や暴行に手を焼いた徳川幕府の江戸警備担当、庄内藩が三田の薩摩藩邸を焼き打ちした。

[河井継之助]1827〜68年。長岡藩家老。戊辰戦争で一度落城した長岡城を取り返し、奮闘した。

[楢山佐渡]1831〜69年。盛岡藩家老。奥羽越列藩同盟入りを決断。敗戦の責任を負って切腹した。

[原敬]1856〜1921年。盛岡藩出身。立憲政友会総裁を経て首相。爵位を持たず平民宰相と呼ばれた。


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2018年03月28日水曜日


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