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<奥州の義 戊辰150年>(1)プロローグ 画期的瞬間、東北が一つに

沈みゆく夕日の中、鶴ケ城の天守がシルエットで浮かび上がった。城の南東に位置する小田山には新政府軍の砲台が据えられ、城下に向けて雨のような砲撃が加えられたという=会津若松市城東町付近より望む
●インデックス用の鶴ヶ城=2018年3月21日、会津若松市の鶴ヶ城公園

 白河以北一山百文。東北を軽視するこの言葉が、いつから使われだしたか定かではない。しかし世の人の心に深く刻まれた契機は、はっきりしている。
 今から150年前、幕末から明治へと時代が転換する中で起きた戊辰戦争で、東北の諸藩が明治新政府にひざを屈したことだ。

 西国の薩長土肥を中心に成立した明治新政府は、幕末の動乱期に対立した会津、庄内両藩を討ち滅ぼそうと「朝敵」と位置付けた。東北自らの手で両藩を攻めろと命令した。
 朝廷、幕府双方に忠誠が厚く、京都、江戸の治安維持に尽力してきた会津、庄内を討つ必要がどこにあるのか。納得できない仙台、米沢など東北諸藩は擁護へと立ち上がる。
 新政府と両藩の和平を取り持つため大同団結しようと、東北と北越の31藩が奥羽越列藩同盟を結成。それは東北全域が一つになった画期的な瞬間でもあった。
 しかし平和解決を求める嘆願は新政府に一蹴され、「会津、庄内に味方する者は全て敵」と、東北の地は戦火に巻き込まれていく。そして敗れて「賊軍」のいわれなき汚名を背負い、その後も負け組の意識が付いて回ることとなる。

 今年、日本各地で維新を記念する行事が開催されている。「近代化の幕開けとなった大業」「明治の精神に学ぼう」。そんな称賛の言葉が飛び交う。
 待ってほしい。勝った者が正しく、敗れた者に正義はなかったのか。そんなことはない。東北の各藩はそれぞれの信念に従い戦った。安易に長いものに巻かれず、公正を重んじた。
 維新が近代化の第一歩となったことは疑いない。ただその船出は戊辰戦争の犠牲と表裏一体だ。実相を問い直すべく、今も史跡に刻まれる記憶をたどりたい。戦雲を追って。
(文・酒井原雄平 写真・岩野一英)

[戊辰戦争]1868(慶応4)年1月から翌年5月にかけて、明治新政府と旧幕府側の諸藩との間で起きた内戦。鳥羽・伏見の戦いから上野彰義隊の戦い、奥羽・北越戦争、箱館(函館)五稜郭の戦いまでを指す。開戦年のえとが戊辰に当たるため、この呼称が付いた。薩摩、長州藩などが中心の新政府は、前年に大政奉還した前将軍の徳川慶喜や会津、庄内両藩を朝敵として追討軍を進め、両藩を擁護する東北・北越諸藩が抗戦した。戦後、敗れた東北諸藩には減封や未開拓地への移住など厳しい処分が課せられた。


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2018年04月01日日曜日


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