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<加藤謙一展>手塚治虫や石ノ森章太郎ら世に出し少年漫画の礎築く 名編集長の業績に光

加藤謙一(弘前市郷土文学館提供)
加藤が編集した「少年倶楽部」。色鮮やかな表紙が特長だ
漫画少年の創刊号表紙(弘前大付属図書館所蔵)。レイアウト版のため、左右が反転している

 戦前から戦後にかけて雑誌編集長を務め、少年漫画の礎を築いた弘前市出身の加藤謙一(1896〜1975年)の企画展が同市の郷土文学館で通年開催されている。手塚治虫や石ノ森章太郎(登米市出身)ら著名漫画家を世に出した人物として知られ、雑誌や書簡など資料約80点を展示し、業績に光を当てる。
 旧和徳村(現弘前市)に生まれた加藤は、旧制弘前中(現弘前高)、青森県師範学校(現弘前大教育学部)で学び、22歳まで地元で教員として働いていた。
 転機は17(大正6)年ごろの富田尋常小の勤務時代。児童に雑誌を読むことを薦めたが、関心を示さなかったことに奮起し創作童話や児童の作品を載せた学級誌「なかよし」を制作した。楽しそうに読む教え子たちの姿を見て「全国の子どもたちにも広めたい」と、上京を決意したという。
 東京では代用教員として働きながら出版社への就職活動を続けた。編集者志望の理由を書いた論文が評価され、上京から3年後の21年、講談社に入社。1カ月後には議案書と論文が社長の野間清治の目に留まり、加藤は「少年倶楽部(くらぶ)」の編集長に抜てきされた。
 郷土文学館の櫛引洋一・企画研究専門官は「加藤の原点は、教員時代に子どもたちのために学級誌を作ったという経験だった。子どものために雑誌を作る、という考えは生涯変わることはなかった」と説明する。企画展では「なかよし」を読んだ教え子たちと、63年に再会した喜びをしたためた手紙の下書きが読める。
 多くの若手漫画家が住み込んだアパート「トキワ荘」(東京都豊島区)にも加藤は縁がある。当時、次男宏泰(故人)が暮らしており、手塚を住まわせるきっかけとなったという。
 手塚が加藤の長女美紗子(故人)に宛てた展示資料の手紙には「漫画少年は他の多くの仲間が言うごとく、私の土壌と言うべきものだった」と、加藤への敬意が記されている。
 豊島区では昨年、加藤が編集した「漫画少年」発売70年を記念し、漫画少年に関する展示会を開催した。同区ではトキワ荘の復元プロジェクトを進めている。
 8月18日には加藤の四男丈夫さん(79)が郷土文学館を訪れ、講演会を行う。丈夫さんは「父(加藤)の小学校からの友人で、就職活動時代を支えた友について語りたい」と話す。
 郷土文学館での企画展は12月28日まで。午前9時〜午後5時。入館料100円。連絡先は同館0172(37)5505。

[加藤謙一(かとう・けんいち)] 戦前、講談社の雑誌「少年倶楽部」の編集長として、同郷で旧制弘前中の先輩に当たる作家佐藤紅緑の少年小説「あゝ玉杯に花うけて」、田河水泡の漫画「のらくろ」などの作品を大ヒットさせた。吉川英治や大佛次郎ら人気作家の小説や、樺島勝一ら画家の挿絵、紙模型など斬新な工作付録も好評だった。妥協を許さない誌面作りで発行部数を2万8000部から65万部まで増やし、昭和の名編集者とうたわれた。
 1947年1月に公職追放を受け、同年秋に学童社を設立。創刊した「漫画少年」には、手塚の「ジャングル大帝」や、長谷川町子の「サザエさん」などの作品を掲載した。デビュー前の石ノ森も故郷の登米市から漫画少年に作品を投稿して腕を磨いた。


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2018年04月07日土曜日


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