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<奥羽の義 戊辰150年>(2)会津藩 治安回復に尽くす

金戒光明寺にある高さ約23メートルの山門の天井には「蟠竜(ばんりゅう)図」が広がる。兵士は市中を一望できる山門から不穏な動きを見張り、竜のごとくにらみを利かせた=京都市左京区
会津墓地の参拝者が思いをつづったノート

◎第1部 開戦への道/京都守護職

 1862(文久2)年、幕府が新設した京都守護職に会津藩主の松平容保(かたもり)が任命された。容保は兵士1000人とともに入京し、町衆は沿道に人垣をつくって歓迎した。本陣となったのが京都市左京区にある金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)だ。

 市中を一望する小高い丘に立つ寺の威容は、まるで城のよう。徳川家康が有事に備え、城構えに整えたのだという。兵士が駐屯できる広大な敷地に加え、御所まで約2キロの近さから本陣に選ばれた。
 幕末の京都は、尊皇攘夷派による「天誅(てんちゅう)」の名を借りた過激なテロが横行する無法地帯となっていた。尊攘派の筆頭とも言える存在が長州藩だった。
 守護職はテロ鎮圧が任務であり、火中の栗を拾うようなもの。家臣の反対もあって、容保は当初固辞したが、幕府の度重なる要請を断り切れずに受諾した。
 会津藩が警備に当たると治安は上向いた。現地で近藤勇、土方歳三らの浪士集団「新選組」も登用し、抑止力として活用した。
 「会津肥後守様 京都守護職務めます 内裏繁盛で公家安堵(あんど) とこ世の中ようがんしょ」。当時、こんな俗謡が流行したとされる。京の町人と公家の喜色がうかがえる。時の孝明天皇も容保に御衣を贈るなど期待を込めた。

 金戒光明寺の会津墓地には、参拝者の寄せ書きノートが置いてある。既に8冊目。「私の生まれ住む京都を守ってくれ、頭を垂れるのみです」「最後の誠の武士」。古里を遠く離れ、京都の治安維持に尽くした藩士をしのぶ声が並ぶ。
 墓地で毎年法要を営む京都会津会の小西雅彦幹事長(63)=会津若松市出身=は「幕末史の見直しとともに、先人の苦労が正当な評価を得始めている。うれしいこと。会津の魂が感じられるこの墓地を、静かに守っていきたい」と話した。(文・酒井原雄平 写真・鹿野智裕)

<京都守護職>御所の警備や京都の治安維持のため、江戸幕府が新設した役職。京都所司代、京都町奉行、京都見廻(みまわり)役、新選組を配下に置き、藩兵1000人が原則1年交代で京都に常駐した。会津藩主松平容保は当初「東北の私たちは京都の事情に疎い」と固辞し、家臣も「まきを背負って火事を消すようなもの」と反対した。しかし、福井藩主松平春嶽は、会津藩祖保科正之が残した「将軍家を第一として忠勤に励むべし」の遺訓を持ち出し、説得した。王政復古の大号令に伴い、1868年に廃止された。


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2018年04月15日日曜日


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