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<奥羽の義 戊辰150年>(4)天皇の信頼得て国政主導

王城の地・京都の中心にたたずむ御所。150年前、会津、長州、薩摩などの諸藩と公家が入り乱れて争った。向こう(東側)に見えるのは大文字山
御所から通り一本を隔てた北側に薩摩藩邸があった。薩摩は会津や長州と時に手を結び、時に反目しながら、幕末の主導権を握っていく=京都市上京区

◎第1部 開戦への道/八月の政変

 1863(文久3)年8月18日早朝、三条実美(さねとみ)ら尊王攘夷(じょうい)を唱える強硬派公卿(くぎょう)7人と長州藩が、京都から追放された。「八月の政変」と呼ばれる。仕掛けたのは会津藩と薩摩藩。決断したのは孝明天皇だった。

 天皇は攘夷論者だったが、倒幕は望んでいなかった。むしろ「天誅(てんちゅう)」と称して幕府役人を暗殺するなど騒乱をあおる尊攘派浪士や、長州藩を後ろ盾として自身の意に反する勅書(偽勅)を勝手に連発する公卿たちに頭を悩ませていた。
 政変でこうした勢力は京都から一掃された。喜んだ天皇は会津藩主松平容保(かたもり)に「私の思いを実行してくれ感謝する」「心を合わせて一緒にやっていこう」と直筆の手紙と和歌を送った。容保は感涙を流し、生涯この手紙を肌身離さず持って心の支えにした。
 天皇はその後も手紙を送り、自身の考えや容保への信頼をつづっている。わざわざ「くれぐれも内密に」と付け加えて。政変を機に天皇の信頼を得た会津藩は、国政を主導する立場へと駆け上がった。
 幕末史に詳しい大阪経済大の家近良樹特別招聘(しょうへい)教授(68)は「悲劇のイメージの強い会津藩はこの時点では勝者だった。容保は、後の15代将軍一橋慶喜、実弟の桑名藩主松平定敬(さだあき)と共に朝廷を掌握し、支配的な位地を占めた」と指摘する。
 後に戊辰戦争で敵対する薩摩藩も、このときは盟友だった。家臣同士の交流もあり、元会津藩重臣の山川浩は「唇と歯」のように密接だったと回想している。

 この政変によって、長州藩は御所南門の一つ、堺町御門の警備任務を解かれて帰国した。翌年には失地回復を図ろうと、同藩などの浪士が容保の暗殺と天皇連れ去りを企てたが、事前に察知した新選組に阻止されて、指導者7人を斬殺される、いわゆる「池田屋事件」により、大打撃を受ける。
 やり込められて表舞台を去った長州藩内には、会津藩への恨みがマグマのようにたまっていった。
(文・酒井原雄平 写真・岩野一英)

[八月の政変]尊王攘夷派の公卿と長州藩が京都から追放された事件。薩摩藩が会津藩に持ち掛け、中川宮が参内して孝明天皇から「国家の害を取り除け」との勅令を取り付けた。米沢、盛岡など在京諸藩の多くも協力した。御所に九つある門を武装兵で封鎖し、長州藩の参内を禁じた。失脚した公卿7人は長州藩を頼って落ち延びたため「七卿(しちきょう)落ち」とも言われる。会津藩は任務交代で国元に帰ろうとしていた部隊を急いで呼び戻し、兵数を倍の2000にするなど、最大兵力で政変の中心を担った。


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2018年04月29日日曜日


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