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<奥羽の義 戊辰150年>(5)長州藩撃退し御所を死守

幕末の動乱期、数多くの会津藩士が古里に戻ることなく、異郷の地に果てた。「会津墓地」のこけむした墓石に、今も名を残す=京都市左京区の金戒光明寺
京都御所を舞台に会津と長州が本格的に戦火を交えた「禁門の変」。激戦となった蛤御門の柱に残る弾痕が生々しい=京都市上京区

◎第1部 開戦への道/禁門の変

 1864(元治元)年7月、前年の「八月の政変」で京都を追放された長州藩が失地回復を目指して挙兵し、御所(禁裏)に押し寄せた。御所の各門を警護する会津、薩摩両藩などが応戦し、多くの犠牲を出しながらも退けた。世に言う「禁門の変」である。

 会津藩の守る蛤御門が特に激戦となったことから「蛤御門の変」とも呼ばれる。大砲で武装した長州兵は「朝廷に請願がある」と強行突破を図り、会津藩は一進一退の攻防の末に撃退。長州藩は総崩れとなって敗走した。
 戦闘中、砲弾が雨のように降り注ぎ、公家たちは震え上がったという。長州藩は御所に発砲した罪で朝敵とされ、藩主の毛利慶親(よしちか)は官位を剥奪された。御所を死守した会津藩は京都守護職の面目を保った。
 会津藩が官軍で、長州藩が朝敵。両者の立場が、後に戊辰戦争で逆転するとは誰が想像できただろう。
 戦火で京都は広範囲に焼失し、多くの被災者を生んだ。「どんどん焼け」と呼ばれるこの大火は、会津藩や新選組が火を放ったのが原因とうわさが立ち、町衆の反感を買った。
 守護職本陣だった金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)(京都市左京区)の「会津墓地」には禁門の変で戦死した藩士22人を含む352人が葬られている。橋本周現筆頭執事(62)は「命懸けで戦ったのに町衆に理解してもらえなかった。会津藩は大火の復興を終える前に明治維新で京都を追われてしまった」と同情する。

 その後、朝廷は2度にわたり長州征討を命じるが、財政難の諸藩は出兵を渋り、会津藩だけが突出する格好となった。幕府は既に指導力を失っており、征討は結局失敗した。
 孝明天皇と会津藩の親密さにも、江戸の老中たちが「そこまで朝廷に取り入りたいか」と反発、気付けば会津藩は孤立していた。
 一方、長州藩は家老3人の切腹で禁門の変に対する謝罪を認められ、藩存亡の機を乗り切った。会津藩はこの先、息を吹き返した長州藩の逆襲にさらされる。
(文・酒井原雄平/写真・鹿野智裕)

[禁門の変]長州藩兵は京都西部の山崎・天王山や嵯峨・天竜寺に布陣し、御所西側の各門から突入を図った。一時は中立売御門を突破して御所内に侵入したが、薩摩藩が援軍に駆け付けると形勢が逆転して敗退。尊王攘夷派の指導者的存在だった久坂玄瑞や真木和泉が自刃した。

[蛤御門]京都御苑と外部を隔てる九つの門の一つで御苑西側にある。元は新在家御門の名で常に閉ざされていたが、江戸時代の大火で初めて開門されたことから「焼けて口が開くハマグリ」に例えて蛤御門と呼ばれるようになった。


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2018年05月13日日曜日


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