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<奥羽の義 戊辰150年>(6)御所を追われ 表舞台去る

宮中から追放された岩倉具視が移り住んだ洛北の住居。ここで薩摩の大久保利通らと議論を重ねた岩倉はやがて、明治維新政府の中心人物として復活する=京都市左京区岩倉上蔵町
京都における徳川政権の拠点だった二条城。二の丸御殿(手前)の大広間で、最後の将軍・徳川慶喜が江戸幕府に終止符を打った=京都市中京区

◎第1部 開戦への道/王政復古

 1867(慶応2)年1月、幕府を支持してきた孝明天皇が病で急死した。会津藩は最大の支援者を失い、15代将軍に就いたばかりの徳川慶喜にも痛手となった。後を継いだのは、まだ14歳の後の明治天皇だ。
 薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通らは、この機に公卿(くぎょう)の岩倉具視と共に天皇を担いで倒幕へと動く。同年11月には「賊臣慶喜を討て」と倒幕の密勅が出る。幕府はついに「大政奉還」で政権を朝廷に返上。慶喜は二条城に各藩の重臣を集めて返上の意思を伝えた。265年間続いた徳川幕府は終止符を打った。
 ただ、慶喜は引き続き徳川家が政治を主導する考えだった。徳川宗家18代当主の徳川恒孝(つねなり)さん(78)=徳川記念財団理事長=は「世界の事情に通じた慶喜は、藩幕制ではない新しい日本を自らかじ取りしようとした」と話す。
 慶喜が影響力を保っては旧態同然と考えた岩倉らは翌々月、「王政復古の大号令」を発して明治新政府を強引に成立させてしまう。慶喜に対しては新政府から排除した上、領地と官位を取り上げて一大名とする決定がなされた。
 会津藩は御所を追われ、二条城に退いた。かつて自分たちが御所の各門を閉ざして長州藩を追放した「八月の政変」と同じ手法で閉め出された。藩士らは怒り沸騰。暴発を恐れた慶喜は京都から大坂城に移った。
 岩倉は王政復古の構想を、京都市北部の小さな家で蟄居(ちっきょ)中に練った。家は現在、「岩倉具視幽棲(ゆうせい)旧宅」として国史跡となっている。
 元々は朝廷と幕府の協力強化を目指し、14代将軍家茂と皇女和宮の婚姻を進めた男だった。そのため尊王攘夷派に目の敵にされて失脚し、暗殺を避けて洛外に隠れ住んだ。それが最終的には倒幕に転向した。
 旧宅を管理する植弥加藤造園(京都市)社員で学芸員の重岡伸泰さん(46)は「岩倉はこの地で大久保らと交わるうち、自分は時代遅れだ、幕府はもはや当てにならないと認識を改めた」と指摘する。
 荒療治を進める新政府と、いきり立つ旧幕臣。衝突が迫っていた。
(文・酒井原雄平 写真・岩野一英)


<王政復古の大号令>幕府や摂関制度を廃止し、新たに天皇の下に総裁、議定、参与の三職を置いて政治を行うと定めた宣言。京都守護職も廃止となった。三職には岩倉具視ら公家と薩摩、土佐、尾張、越前、芸州の限られた5藩の藩主、藩士が就いた。徳川家の処分を巡る三職会議に徳川慶喜は招かれず、本人不在のまま内大臣の官位と幕府領の返上が決まった。越前藩主松平春嶽と土佐藩主山内容堂の2人は慶喜を出席させるよう求め、14歳の天皇を擁した討幕派の専横だと非難したが、押し切られた。


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2018年05月20日日曜日


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