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<阿武隈川物語>(5)高畠の米も大量輸送

御城米蔵の名残の蔵の前で、舟運に関する歴史を語る島津さん(右)=山形県高畠町安久津
御城米輸送の際に幕府の物品であることを示した江戸時代の旗指し物=山形県高畠町郷土資料館

 阿武隈川の舟運は、幕府直轄地だった信達地方(福島、伊達両市など)の年貢米である「御城(ごじょう)米」輸送で発達した。山形県置賜地方の米も扱い、物流網は広範囲だった。地域の発展に舟運が与えた影響は大きい。ゆかりの深い流域を訪ねた。

◎第1部 舟運/(4)物流網

 「高畠に倉あり、御城(ごじょう)米溜(とめ)倉という。江戸に輸(おく)るには必ず牛馬に載せて阿武隈川に至り、しかる後舟に載せて浦賀港に入るという」
 幕末の思想家吉田松陰が1852年に東北を旅した「東北遊日記」に、山形県高畠町に関する記述がある。幕府直轄地の年貢米である御城米を保管した蔵は高畠に11棟あったとされ、名残の1棟が残る。

<馬で峠を越えて>
 高畠と米沢市の一部からなる屋代郷3万石は1664年の米沢藩削封で、信達地方(福島、伊達両市など)とともに直轄地となった。奥羽山脈の西側ながら、御城米輸送に利用されたのが阿武隈川舟運だ。
 ルートは、馬で二井宿峠を越えて羽州街道を通行。宮城県七ケ宿町を経由し、福島県国見町や桑折町の阿武隈川河岸で舟に積んだ。米沢から板谷峠を越えて福島で舟積みする御城米も一部あったが、長い峠道が続き、標高差も大きく、駄賃がかさんだという。
 高畠町文化財保護委員長の島津憲一さん(70)は「馬1頭で2俵しか運べないのに対し、舟運は数十俵、100俵と大量に安価で輸送できた。技術革命だった」と説明する。
 二井宿峠の古道を歩く会を20年間開いている島津さん。町の文化財保護関係者の研修で、桑折の阿武隈川河岸や、御城米の到達地である東京都浅草などを案内したこともある。島津さんは「高畠は最上川舟運の出発地でもあり、酒田から西廻(まわ)り航路で京阪に通じた。当時の日本はダイナミックにつながっていた」と思いをはせる。

<8000点解読本格化>
 「官」の荷物の御城米ばかりでなく、舟運は生活用品も運んだ。
 岩沼市玉崎で御城米輸送舟など川舟の統制役を務めた渡辺家は、多様な物資を扱う問屋だった。塩釜市で水揚げされた水産物「五十集(いさば)」を内陸部に運んだり、岩沼周辺で生産された藍玉を江戸に送ったりした。
 渡辺家の蔵が東日本大震災で損傷したため、古文書約8000点が岩沼市史編纂(へんさん)室に預けられ、解読が本格化している。岩沼市文化財保護委員長の千葉宗久さん(68)は「解明が進むのが楽しみ。物資の往来は想像以上に盛んだったのではないか」と期待する。
 千葉さんによると、岩沼では戦後まで五間堀川や丸沼堀などの水路が活用された。「鉄道と道路が整うまで物流の中心は舟だった。舟運の時代、流域のつながりはずっと密だっただろう」と千葉さん。現代と違った、阿武隈川が大動脈だった生活圏が浮かぶようだ。

[江戸時代の物流網]東廻りと西廻り航路、東海道や奥州街道など五街道を軸に全国が物流網で結ばれていた。江戸の人口は当時世界最大規模の100万で、幕府直轄地400万石(うち関東100万石)など各地の物資が運ばれた。仙台藩からは年に20〜30万石の米が江戸に送られ、江戸の米相場を左右した。


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2018年05月22日火曜日


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