広域のニュース

<奥羽の義 戊辰150年>(7)激戦物語る弾痕 今も店に

会津と薩長などが戦闘を繰り広げた伏見の街。京都中心部へつながる街道沿いにあり、激しい市街戦は夜まで続いた。中央は伏見御堂の山門=京都市伏見区
料亭の戸をえぐった銃弾の跡。鳥羽・伏見の戦いから150年後の今も残る

◎第1部 開戦への道/鳥羽・伏見の戦い

 京都市南部の伏見は、江戸時代から関西有数の酒どころとして名高い。板塀の風情ある酒蔵が立ち並び、「月桂冠」「黄桜」などの有名酒造会社が立地する。大阪、奈良と結ぶ交通の要衝で水運も栄えたこの地が、戊辰戦争初戦の舞台となった

 開戦前日の1868(慶応4)年旧暦1月2日夕刻、船で大阪を出た先発隊の会津藩兵約200人は伏見港の中心地である京橋から上陸し、伏見奉行所と伏見御堂に布陣した。異変を察知した薩摩藩兵は通りを挟んだ御香宮(ごこうのみや)神社の高台に大砲を据え、待ち構えた。
 「両軍が小競り合いをする最中の午後4時頃、鳥羽方面から聞こえてきた1発の砲声に触発され、薩摩藩の大砲が火を噴いた」(伏見御堂の碑文)。両軍はそのまま戦闘に突入し、伏見奉行所は砲火を浴びて焼失した。
 1764年創業で、ミシュランガイドで星付きの評価を受けた老舗料亭「魚三楼(うおさぶろう)」が面する京町通も戦火に包まれた。玄関の格子戸には今も弾痕が残り、戦闘の激しさを物語る。店の前では、会津藩預かりの浪士集団「新選組」が、銃砲で武装した薩摩兵に白刃で切り込んだと伝わっている。
 「店は当時、官軍(新政府軍)の台所番を務めました。伏見は西国諸藩の大名屋敷が多く、普段の仕出しの付き合いで要請されたのでしょう」。9代目当主の荒木稔雄さん(58)が説明する。
 一帯は焼け野原と化したものの、店は幸運にも被害を免れた。「今年は歴史ファンの来店が特に多いですね」と荒木さんは言う。

 御香宮神社の境内には、佐藤栄作元首相(山口県出身)自筆の案内板がある。「維新の大業はこの一戦に決した。近代国家へ進むか進まぬか(中略)わが国史上、否、世界史上まことに重大な意義を持つ」と強調する。勝者の視点がありありとしている。
 一方、伏見奉行所跡の石柱が立つ市営桃陵(とうりょう)団地の一角は、訪れる人もなく、ひっそりとしていた。
(文・酒井原雄平/写真・鹿野智裕)

[鳥羽・伏見の戦い]1868(慶応4)年旧暦1月3日、徳川慶喜率いる旧幕府軍が薩摩藩追討を朝廷に訴え出るため入京を図り、阻止しようとした明治新政府軍が迎え撃った。旧幕府軍の兵数は会津、桑名藩など約1万5000と、薩摩、長州藩など約5000の新政府軍を上回ったが、近代的な銃火器の前に苦戦。新政府軍が天皇の軍を示す「錦旗(きんき)」を掲げると、旧幕府軍は士気を失い、総崩れとなったとされる。徳川慶喜は会津藩主松平容保らを連れて大阪から江戸へ船で敗走した。


関連ページ: 広域 社会 奥羽の義

2018年05月27日日曜日


先頭に戻る