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<奥羽の義 戊辰150年>(8)藩論二分の末に非戦選ぶ

青葉山の深い緑に包まれた仙台城大手門の脇櫓(わきやぐら)。「非戦中立」の願いもむなしく、時代の荒波はいや応なく仙台城に押し寄せた=仙台市青葉区川内
伊達慶邦自筆による建言書の一部。追討令は「正大明白、無偏無党之公論」によって決定すべきだと主張している

◎第2部 悩める大藩仙台/会津追討令

 京都で鳥羽・伏見の戦いが勃発し戊辰戦争が幕を開けた1868(慶応4)年旧暦1月上旬ごろ、遠く離れた仙台に緊張感はまだなかった。御所を舞台とした権謀術数から仙台藩は距離を置いてきた。62万石を誇る奥州の雄藩として、恥じない行動を取りたい意識があったからだ。

 だが、時代の動乱は仙台藩を放っておいてはくれなかった。開戦2週間後の1月17日、明治新政府から会津追討の命令が下る。「仙台藩が会津藩の単独攻撃を願い出たので許可する」という内容だった。驚いた仙台藩側は「そんな出願はしていない」と訂正を求めた。出願のくだりは削除されたものの、追討の命そのものは変わらなかった。
 降って湧いた追討令に従うべきか。藩を二分する激論となった。「天皇の意思。即刻攻めよ」「京都守護職として朝廷、幕府双方に尽くした会津藩に何の恨みもない」。議論は容易にまとまらなかった。
 仙台市博物館学芸員の水野沙織さんは「幕末の仙台藩は必ずしも幕府支持ではなかった」と指摘する。藩主伊達慶邦(よしくに)は自身の助言を聞き入れない幕府に失望し「徳川の終わりも遠くない」とぼやいている。
 かといって、薩長主体の新政府にむやみに従う道理もない。慶邦が追討の命令に対して下した決断は「非戦中立」だった。
 2月11日、慶邦は朝廷宛ての建言書を作成する。政権を返上した徳川慶喜に謀反の意思はない、まだ若い明治天皇が本当に判断したのかなど五つの疑義を呈し、新政府の方針に待ったを掛けた。藩校養賢堂学頭を務めた漢学者の大槻磐渓が草稿を書き、新政府に公明正大な対応を求める内容は現代でも評価されている。

 だが、一歩遅かった。書状が京都に届いた2月末、新政府の追討軍は進軍を始めていた。もはや止められない。京都詰めの藩士は時期を失したと判断し、提出を見送った。
 日々動く幕末の政局に対し、徒歩で片道2週間近くかかった仙台−京都間は遠すぎた。時勢の読みが甘かったとも言える。
 建言書と行き違う形で2月17日、錦旗が仙台に届いた。この時点で、仙台藩は新政府側に立たされた。
(文・酒井原雄平/写真・岩野一英、鹿野智裕)


[伊達慶邦]1825年、仙台藩11代藩主斉義(なりよし)の次男として生まれる。41年に13代藩主に就く。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の総督として指導的立場を担った。敗戦後の処分で所領を28万石に減封された。74年死去。

[大槻磐渓]1801年、解体新書を翻訳した蘭学者大槻玄沢の次男として誕生。江戸で漢学と西洋砲術を学び開国論を唱えた。65年に藩校養賢堂の学頭となり藩主伊達慶邦のブレーン役を担った。日本初の国語辞典「言海」編集者の大槻文彦は三男。78年死去。


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2018年06月03日日曜日


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