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<宮城県沖地震40年>集団移転の住民、地域活動担い地元と融和 新たな課題は高齢化

公園清掃に集う住民ら。町内会活動が互いの交流を促す場になっている=5月13日午前7時30分ごろ、仙台市太白区山田北前町

 1978年6月12日の宮城県沖地震発生から間もなく40年となる。大規模な地滑りで防災集団移転の対象となった仙台市太白区緑ケ丘の住民は、約4キロ西に新たなコミュニティーを築いた。東日本大震災の被災地で集団移転などによる地域づくりの模索が続く中、38年の歴史を刻んだ移転団地から見えるものは何か。現状と歩みを追った。(報道部・菊池春子)

 「おはようございます」「体調はどう?」
 5月13日朝、太白区山田北前町。地域の自治会「山田住宅町内会」の定例の公園清掃に約20人が集まり、声を掛け合う。うち7人は宮城県沖地震に伴う移転者。近年引っ越した新住民を交え、共に汗を流す。
 「緑ケ丘から来た人もそうでない人も、もはや垣根がなく分からないほど」。地震前から暮らす町内会長の荒裕道さん(69)はこう話し、それぞれが地域の一員として町内会活動などを支えていると実感する。
 宮城県沖地震で住宅損壊などの大きな被害を受けた太白区緑ケ丘1、3丁目は、地震後の80年までに約20世帯が山田北前町に移転。大都市部で発生した災害としては初の防災集団移転で、住民らは手探りで生活再建を余儀なくされた。
 「みんな二重ローンを抱え大変な時期だった。移転者同士でお茶飲み会や忘年会などをして支え合った」。移転者の一人、佐藤啓子さん(77)は振り返る。
 移転後、町内会活動を始める際には単独か、近隣と一緒になるか住民で協議した。「罹災(りさい)者会」の世話人だった夫の故洋夫さんらが移転者らの意向を集約し、現在の町内会に加入。世帯数が少なく地元との連携が必要と判断したという。
 「当時の町内会長が度々訪ねてくれ、温かく受け入れてもらった」と振り返る佐藤さん。洋夫さんは町内会の役員に就き、移転者らも清掃などの当番を担う中で一体感が醸成された。
 地域住民によると、山田北前町は戦後、大陸からの引き揚げ者や仙台空襲の被災者の住宅が整備されたエリア。荒さんは「新住民を受け入れやすい土壌があったかもしれない」と言う。
 国土交通省のまとめでは、2011年の震災では岩手、宮城、福島3県などの計332地区、8395戸が集団移転の対象となった。災害公営住宅を含め数百世帯規模で新たな団地が形成され、コミュニティーづくりに腐心する地域があるほか、近隣の既存住宅地との融和が難しかったり、高齢化が進んだりと数多くの課題が存在する。
 山田北前町への移転から38年がたった緑ケ丘地区の被災世帯は世代交代が進み、現在残るのは11世帯。当初の約半分になった。お年寄りの独居世帯も増えており、コミュニティーの維持は曲がり角を迎えている。
 佐藤さんは集団移転で再出発したこれまでを振り返り、「住民同士のコミュニケーションが大事。リーダーとなる世話役の存在も大きい」と強調。「地域全体が高齢化している今、再びお茶会などで孤立防止を図れないか」と模索する。

[宮城県沖地震の防災集団移転]地震発生から2年後の1980年、仙台市は太白区緑ケ丘1、3丁目の一部を災害危険区域に指定。住宅新築を制限し、国や自治体が移転費用などを一部負担する防災集団移転が実施された。国土交通省によると、宮城県沖地震以前、東北で集団移転が行われたのは集中豪雨や山崩れの被害を受けた黒石市、山形県大蔵村などで、都市部の住宅地では初めて。太白区緑ケ丘地区は東日本大震災でも地滑り、地割れなどが発生し、4丁目の一部が防災集団移転の対象となった。


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2018年06月04日月曜日


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