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<奥羽の義 戊辰150年>(9)高まる緊張和平求め奔走

会津追討を果たそうと、新政府軍が上陸した松島湾。仙台などの東北諸藩を動かして会津を攻めさせるのが薩長の戦術で、陸路より先にまず海路で東北に入った。左は浦戸諸島の寒風沢島=塩釜市
仙台藩主伊達慶邦が奥羽鎮撫総督の一行を出迎えた観瀾亭。名勝の地で礼を尽くし戦乱を避けようとしたが、薩長には通じなかった=宮城県松島町

◎第2部 悩める大藩仙台/鎮撫総督府上陸

 1868(慶応4)年旧暦3月17日、仙台藩領の松島湾の寒風沢(さぶさわ)島(現在の塩釜市)に4隻の大型船が来た。乗っていたのは会津追討を東北諸藩に実行させるために派遣された明治新政府の奥羽鎮撫(ちんぶ)総督府と、護衛約800人。翌18日、東名浜(東松島市)から上陸した。

 一行は次の顔触れだった。

 奥羽鎮撫総督 九条道孝(公家)
 副総督 沢為量(ためかず)(同)
 参謀 醍醐忠敬(だいごただゆき)(同)
 下参謀 大山格之助(薩摩藩士)
 同 世良修蔵(長州藩士)

 実際の指揮権は3人の公家ではなく、大山と世良が握っていた。

 上陸時、予想外の事件が起きた。停泊中の江戸の商船を見つけた大山が「これは敵地の船」と臨検し、積み荷の砂糖などを没収したのだ。仙台藩士だけでなく護衛の他藩士も仰天し、浜の漁師たちはおののいた。
 一行は松島を遊覧した後、同地の観瀾亭(かんらんてい)に宿泊した。藩主伊達慶邦が出迎えた。新政府の正使に最大限の敬意を表したとみられる。
 観瀾亭の建物は現在、宮城県指定有形文化財。管理する松島町産業振興課の佐々木洋美主幹(59)は「藩主の納涼や、大事な幕府使者の接待に使われてきた」と説明する。

 九条総督はその場で「早々に会津へ討ち入れ」と命を言い渡した。慶邦は受けるほかなかった。

 だが、何とか戦争を避けたい慶邦は裏で和平工作を進め、考えを同じくする米沢藩が協力を申し出た。さらに仙台藩校養賢堂の指南統取を務めた藩士玉虫左太夫を会津に派遣し、謝罪恭順を取り次ぐ用意があると伝えさせた。玉虫と面会した藩主松平容保(かたもり)は厚意に感謝したが、薩長に降伏を請うのは屈辱とも述べた。

 玉虫はそれ以上降伏を勧めず、真意を確かめるにとどめた。容保は上機嫌で玉虫をもてなし、酒を振る舞った。「飲めるそうだな。大杯を取らせよう」と言う容保に、玉虫は「私は大杯(大敗)は好みません。(小さな杯の)小盞(しょうさん)(勝算)をください」と返し、笑いを誘った。

 軍事的な緊張が高まる中、仙台、会津両藩の間に信頼関係が築かれ始めた。問題は、誇り高い会津藩をいかに謝罪恭順させるかだった。
(文・酒井原雄平/写真・鹿野智裕)

[観瀾亭]仙台藩主の納涼、観月の亭として「月見御殿」とも呼ばれた。文禄(1593〜96年)年間、豊臣秀吉から藩祖伊達政宗が拝領したとされる伏見桃山城の1棟を、2代藩主忠宗が船で松島に移築した。瀾はさざ波の意味。床の間の「雨奇晴好」の額は5代藩主吉村、欄間の「観瀾」は7代藩主重村の書。お抱え絵師による極彩色の障壁画は国重要文化財に指定されている。現在は松島町の観光施設として抹茶や菓子を有料で提供している。入館料は大人200円、大学生・高校生150円、小中学生100円。


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2018年06月17日日曜日


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