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<奥羽の義 戊辰150年>(10)総督府の無礼に怒る藩士

伊達家の家紋「三引両(みつびきりょう)」と「九曜(くよう)」が交互に並べられた養賢堂の正門。梅雨時の路上の水たまりに、その姿を映す=仙台市若林区の泰心院
明治の洋画家高橋由一が描いた「宮城県庁門前図」(1881年)は、在りし日の養賢堂の姿を今に伝える。正門は既に移築され、新しい洋風のものとなっている(宮城県美術館所蔵)

◎第2部 悩める大藩・仙台/出兵強要

 1868(慶応4)年旧暦3月23日、明治新政府は会津追討を督促するため奥羽鎮撫(ちんぶ)総督府を仙台に置き、藩校養賢堂を宿舎とした。総督府は仙台藩に会津出兵を強行させようと高圧的な態度で臨み、鎮撫の名とは裏腹に騒乱を巻き起こす。
 仙台藩主伊達慶邦は表向き命に従い軍備を整える一方、裏で会津藩との和平を模索していた。総督府下参謀の世良修蔵(長州藩士)は出兵を渋る仙台藩の態度に激怒した。
 首席奉行但木土佐(ただきとさ)と奉行坂英力(さかえいりき)を呼び付け「なぜすぐ出兵しない。朝命を侮辱するのか」となじった。2人は「隣藩と協議して準備を進めている」と釈明したが、世良は「一刻も遅れは許さぬ」と迫った。
 会津藩主松平容保(かたもり)と会談した結果、容保に反抗の意思はなかったと説明した藩士玉虫左太夫と若生文十郎を、世良は「愚か者。主人も知れたものだ」と罵倒。「容保の斬首以外は認めない」と主張した。
 榴岡であった総督府の花見では、酔った世良がこんな歌を詠んだ。
 <陸奥に桜かりして思ふかな 花ちらぬ間に軍(いくさ)せばやと>
 「桜が散る前に早く兵を出せ」との当て付けとも取れた。
 薩長の兵士は「竹に雀(すずめ)を袋に入れて後においらのものとする」と歌い、わが物顔で街を歩いた。竹に雀は伊達家の家紋。弱腰の仙台藩はいずれ手中に落ちると嘲笑された。
 大藩62万石の尊厳を踏みにじられた藩士からは「養賢堂を焼いて皆殺しだ」「無礼な総督府は偽物」と声が上がった。但木は「今、事を起こすな。藩の行く末を考えろ」と暴発を必死に押さえた。但木自身も内心は穏やかでなかった。
 総督府一行の警護は、中津山(石巻市桃生地区)の藩士黒沢家などが担った。石巻市の郷土史家阿部和夫さん(79)は「仙台藩を見くびる相手を警備するのは歯がゆかっただろう」と思いをはせる。
 養賢堂は現在の仙台市中心部の勾当台にあり、明治時代に最初の宮城県庁舎として使われ、太平洋戦争末期の仙台空襲で焼失した。同市若林区南鍛冶町の泰心院に移築された正門は市指定文化財となっている。(文・酒井原雄平 写真・鹿野智裕)

[養賢堂]仙台藩士の子弟の教育を担った藩校。1736年に5代藩主伊達吉村が前身の学問所を現在の仙台市木町通小周辺に設置。60年に7代藩主重村が現在の宮城県庁所在地に移転し、72年に養賢堂と改称した。当時主流だった儒学に加え、後に学制改革で医学、洋学(オランダ語、ロシア語)、算術などの実用科目も取り入れて国内有数の規模に発展した。出身者に「海国兵談」著者の思想家林子平、幕末の蘭学者高野長英らがいる。戊辰戦争で会津藩との交渉役を担った藩士玉虫左太夫や若生文十郎らも学んだ。


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2018年06月24日日曜日


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