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<高校野球・東北勢大旗への挑戦>延長十八回再試合の死闘 青森・三沢(1969年)

1969年夏の決勝で、2日間にわたって愛媛・松山商高と死闘を演じた青森・三沢高の太田幸司投手=甲子園
青森・三沢高エースだった太田幸司さん=2018年5月、兵庫県宝塚市
延長18回の末に引き分け、あいさつする松山商(右)と三沢の選手

 東北勢は春の選抜大会を含めて計11度、全国大会の決勝に進出した。いずれも惜敗しているが、多くの人の記憶に残る熱戦だった。延長十八回引き分け再試合を戦った1969年夏の青森・三沢や、小兵軍団で決勝まで無失点で勝ち上がった71年夏の福島・磐城の戦いぶりは、今も高校野球ファンの語り草だ。選手らの証言を基に、大旗への挑戦をたどる。(スポーツ部・野仲敏勝)

◎エース太田 万感の384球

 ▽第51回大会決勝
松山商 000000000000000000=0
三 沢 000000000000000000=0
          (延長十八回引き分け再試合)
  (松)井上−大森
  (三)太田−小比類巻

 ▽再試合
松山商 200002000=4
三 沢 100000100=2

  (松)井上、中村、井上、中村−大森
  (三)太田−小比類巻
  (本)樋野(太田)

 「足を上げるときは『よいしょ』と重かったが、リリースの時だけ力を入れると、球がブワーッといった。究極のバランス。いつまでも投げられると思ったね」

 夏の甲子園の第51回大会(1969年)。愛媛・松山商と延長十八回引き分け再試合となった決勝を、青森・三沢のエースだった太田幸司(66)=兵庫県宝塚市=が懐かしそうに語る。

 力投する姿と甘いマスクが人気を集め、「甲子園の元祖アイドル」と呼ばれた。日本中が注目する中、直球の威力は回を追うごとに増し、0−0で延長に突入した。

 「延長十八回で引き分け再試合になるルールは、十六回ごろまで知らなかった。延長に入っても『まだいけ、まだいけ』と無心で投げた」

 延長十五回、三沢は絶好のサヨナラ機をつくる。1死満塁で打席の9番立花五雄は、3ボール1ストライクから低めの5球目を見送った。「押し出しかと、ベンチで尻が浮いた。だけど、一瞬空けて球審がストライクと」。東北に大旗が最も近づいた瞬間だった。

<見せなかった涙>
 翌朝、太田は顔を洗おうにも腕が上がらないほど、疲労困憊(こんぱい)。再試合のマウンドでは「昨日、あれだけ良い試合をしたのに、不細工な試合で台無しにしてはいけない。その一心だった」。

 初回に2ランを浴びると、カーブ主体の投球に切り替えて粘った。味方が反撃し、七回に2−4とした後は「これ以上は点はやらない」と力を振り絞った。

 決勝戦は2試合合わせて384球を投げた。ベンチ前に整列した時、太田だけは涙を見せなかった。「あれ以上は頑張りようがなかった。(1996年アトランタ五輪の女子マラソンで銅メダルを獲得した)有森裕子さんが『自分で自分を褒めたい』と言った時、俺もそうだったと思ったよ」

<「勝ちたかった」>
 「雪国のハンディ(がある)と言われるのが嫌だった」。冬場は雪の上を走り、吹雪の日は3階建て校舎の階段と廊下をぐるぐる回った。「下半身が鍛えられ、延長十八回の投球につながった。冬場に野球ができない分、野球をやりたい意欲を強く持てた」

 今でも講演会に行くと、「『仕事をサボって試合を見ました』とか言ってもらう」。前月にアポロ11号が月面着陸し、翌年は大阪万博が開かれた。「激動の時代の変化とともに、記憶してくれているのかな」

 当時のチームメートとは定期的に三沢で集まる。決まって話題になるのは、「あの時に優勝していれば、球史に記録は残ったが、これほど人々の記憶に残ったか」ということ。「だけど、最後は『勝ちたかったね』となるけどね」


2018年06月27日水曜日


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