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<全国高校野球100回 宮城の白球史>(1)1915〜56年 仙台一と仙台二 けん引

1956年夏の第38回全国高校野球選手権2回戦、慶応−仙台二 2回裏仙台二1死三塁からスクイズで三走が生還し、2−2と追い付く
関口 昌男さん
平磯 哲男さん

 全国高校野球選手権がこの夏、100回大会を迎える。宮城からも1世紀にわたり、多くの球児が甲子園を目指し、歴史を築いてきた。選手、監督らに話を聞き、宮城の高校球史を振り返る。(スポーツ部・野仲敏勝)

 戦前から戦後の復興期にかけ、県内の高校球界をけん引したのは仙台一、仙台二だった。定期戦は旧制中学時代の1900(明治33)年に始まり、早慶戦より歴史が古い。
 全国大会に県内から初めて出場したのは23(大正12)年の仙台一中だ。出場権を懸けた東北大会で優勝し、当時の河北新報は「東北の覇はついに一中」と伝えた。

<慶応を破る>
 仙台二は47(昭和22)年夏の甲子園で4強、56(昭和31)年は8強入りした。56年の2回戦で強豪の慶応(神奈川)を破った一戦は、地元の誇りだった。
 試合は3−3の六回、雨で約1時間半にわたって中断。再開後の七回に勝ち越し、4−3で勝利した。
 「慶応の応援団がスタンドの下に逃げ込む中、うちの応援団は土砂降りの中でずっと応援していた。『あれで負けたんだよな』と、後に慶応OBに言われた」と、5番・捕手だった関口昌男さん(79)=東京都=は、うれしそうに語る。
 甲子園のテレビ中継が始まって間もない頃。仙台市内の街頭テレビには人だかりができた。3番・遊撃手で活躍した平磯哲男さん(79)=埼玉県=は「甲子園から戻ると、ファンの人に新聞記事のスクラップ帳をいただいた」と話す。小学生が球拾いを手伝いに来るなど憧れの存在だった。

<雪中ノック>
 「おやじ」と恐れられた二瓶喜雄監督も熱い人だった。雪降る1月のグラウンドで「雪の中でも野球ができるか試そう」とノックを敢行した逸話が残る。「ボールが捕手の僕のところに戻ると、雪玉になっていた」と関口さんは笑う。
 仙台一は50(昭和25)年、仙台二は関口さんらの56年を最後に甲子園から遠ざかる。「目が黒いうちに母校をアルプススタンドで応援したい」と関口さん。「古豪復活」はOBら両校関係者の共通した願いだ。

<宮城の高校球史主な出来事>

1915年(大正4年) 全国中学野球大会始まる
 16年(5年)   地方予選の東北大会に宮城勢が初参加
 23年(12年)   仙台一中が東北大会を制し、宮城勢として初の全国大会出場(当時は鳴尾球場)
 25年(14年)   仙台二中が夏の甲子園初出場
 30年(昭和5年) 東北中が夏の甲子園初出場、県勢初勝利でベスト8
 41年(16年)   戦局深刻化のため地方予選途中で大会打ち切り
 46年(21年)   夏の甲子園大会が再開
 47年(22年)   仙台二中が夏の甲子園ベスト4
 48年(23年)   石巻が夏の甲子園初出場
 53年(28年)   白石が夏の甲子園初出場
 56年(31年)   仙台二が夏の甲子園ベスト8


2018年06月30日土曜日


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