宮城のニュース

<全国高校野球100回 宮城の白球史>(2)1957〜66年 パワー志向 東北が快進撃

59年夏、宮城大会を3連覇した東北ナイン
鈴木 春彦さん

 春夏の甲子園に県内最多の計41度出場している東北。1957(昭和32)年から27年にわたり、野球部副部長と部長を務めた鈴木春彦さん(86)=仙台市青葉区=は「宮城の高校球界を引っ張ったのは東北だという自負はある」と笑顔を見せる。
  
<監督が復帰>
 礎を築いたのは、54(昭和29)年に国学院大監督から復帰した松尾勝栄監督だった。戦前に東北中の監督を務め、30(昭和5)年夏に初の甲子園に導いた実績を持つ。
 53(昭和28)年夏、国学院大を率いて東北高に練習試合に来た時に「ちょっと手を掛ければ強くなる」と古巣を評すると、当時の五十嵐信四郎( のぶ し ろう)校長が聞き逃さなかった。「『だったら松尾先生、もう一回監督に来てください』とお願いし、復帰が決まった」と鈴木さんは振り返る。
 松尾監督はパワー野球を志向した。北国の練習量の少なさを補うためだった。「体の大きさを重視し、投手は速球、打撃は長打力中心。大柄な新入生を見つけると、野球未経験者でも勧誘した」
 59(昭和34)年夏の甲子園では波山( は やま)次郎、嶺岸征男の両投手を擁して4強入りを果たした。準決勝は宇都宮工(栃木)に1−2で惜敗したものの、波山、嶺岸と主軸の黒川豊久、鈴木征夫の計4選手がプロ野球に進むほど、個々の能力が高かった。
  
<宿舎で談議>
 61(昭和36)年まで4年連続で夏の甲子園に出場した。鈴木さんは「私学の生徒集めのための野球部強化と、週刊誌に批判されたこともあった。校長は生徒が社会に出ても『俺だってやれる』と自信を持てるよう、教育的な思いから野球部を強くした」と語る。
 松尾監督は校内の宿舎で単身赴任。県内の他校を招いて練習試合をし、相手の監督と宿舎で酒を酌み交わし、野球談議をした。「そういう交流から他校の監督さんも指導法を学んだのでは」と鈴木さんは見る。
 68(昭和43)年に監督を退くと、国学院大の後輩に当たる竹田利秋氏が後を継ぎ、宮城の高校野球は新たな時代を迎える。

<宮城の高校球史主な出来事>
1957年(昭和32年) 東北が春の選抜大会に宮城勢初出場
  58年(33年)   夏の甲子園は第40回大会を記念し初めて全都道             府県から1校出場。宮城大会決勝は東北5−0仙             台商
  59年(34年)   東北が夏の甲子園でベスト4。嶺岸征男、波山次             郎の両投手ら活躍
  61年(36年)   東北が4年連続で夏の甲子園出場
  62年(37年)   気仙沼が夏の甲子園初出場
  63年(38年)   仙台育英が夏の甲子園初出場
  64年(39年)   仙台育英が夏の甲子園に連続出場


2018年07月01日日曜日


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